新戦国策2-1、惠文君、蘇秦がやってきたが、惠文君が話を断る話






 ということで前回は衛鞅(えいおう、商鞅)と孝公の話でした。一話しかないので前回で孝公はおしまいです。
 今回非常に長そうです。
 あまりにも長いので6つに分けました。
 先に結論を書いておきますと、蘇秦は熱弁を振るったんですが、秦の王には用いられなかったということです。


 ①蘇秦は最初連衡策(れんこうさく、秦を中心として六国を同盟し従わせようとするもの)を用いようとし、秦の王(惠は恵の旧字体)に説いた。
 「大王の国は、西には巴蜀・漢中(はしょく、かんちゅう)からの利益があり、北方には胡などの馬の産地があり、南には険阻な土地があり、東には函谷関があり、田は肥えており、民は富み、戦車は万乗、勇士は百万を数え、富んだ土地は千里となり、糧食や財貨は数え切れぬほどであり、地形は攻守に有利です。これはいわゆる天府とでもいうべきもので、まさに天下の雄国であります。大王の賢明さと士民の多さ、車馬の動きと兵法の訓練を行えば、諸侯を併合し、天下を併呑し、帝として天下を統治すべきでしょう。どうか大王におかれましては、このことを心に留めおきください。この臣はそれらを実行した後のことを進言致しましょう」

 ②秦王は言った。
 「私はこのように聞いているのだが、羽毛の生えそろっていないものは高く飛ぶことができず、法令規則がない場合は規則がないので罰してはならず、上に立つ者が道徳心に厚くない場合は民を使うべきではなく、政治の布教が民心に逆らう場合は実行されないため、そういうことをして大臣に苦労を背負わせてはならない(注によると転じて設備を全うすることなく急速に功を求めてはならないと言いたいのだそう)と。
 今先生は荘厳な様子で、遠路はるばるお越しくださって、教えをこうして賜っております。
 続きはどうかまた後日と致しましょう」


 ③蘇秦は言った。
 「この臣はもともと大王が臣下の献策を用いることができない、ということを疑っておりました。
 その昔、神農が補・遂(ほ、すい)を討伐しました。
 黄帝が涿鹿(たくろく)を討伐して蚩尤(しゆう)を捕虜としました。
 尭(ぎょう)は驩兜(かんとう)を討伐しました。
 舜(しゅん)は三苗(さんびょう)を討伐しました。
 禹(う)は共工(きょうこう)を討伐しました。
 殷の湯王(とうおう)は夏の傑王を討伐しました。
 文王は崇(すう)を討伐しました。
 武王は殷の紂王を討ちました。
 斉の桓公は戦いによって天下の覇者となりました。
 これらの事を考えてみると、どうして戦わなかった者がこの中におりましょうか(反語)。


 ④古代においては使者の乗った車が各国の間を込み合って走っており、言葉一つで天下は仲良くなり、天下は一つとなり、同盟を約束して各国が縦横に整列していましたが、こうも平和な時でさえ戦争は止むことがありませんでした。
 弁士は言葉を飾って諸侯を欺き、たくさんの問題が同時に沸き起こり、治めることができません。法令は備わっても民は欺くことが多く、文書は増える一方で整理ができず、人民は困窮しております。上も下も互いにこれを憂いに思って、民には身を安んじるところもありません。
 言葉は明らかになり(注によるとあくまで国際裁判においては言葉はより明らかとなり、という意味)、兵役はますます起こり、服だけは立派な士が横行し、結局戦役は止むことがありません。どれほど舌を振るったところで口は疲れ、耳は老い、成功することがありません。義を行い信を約しても天下が親しむことはありません。


 ⑤ここにおいて文は廃止して武に任せて死士を養い、鎧を厚くし武器を研ぎ、勝敗は戦場で決着をつけます。これによって特に何もなすこともなくとも利益に繋がり、安座していながら領地を広げることができますが、これは古の五帝・三王・五覇の明王たちが常に座ったままこのようにしようと思っても(国が小さく)その勢いが足りなくてできなかったものです。それゆえ、戦うことがこのことを続ける事だと言えます。
 緩やかであれば両軍は互いに攻め合い、急迫すればつき合うこととなります。そうしてその後に大功が建てられるべきです。この結果として兵が他国に勝ち、国内の人々の義侠心は高まり、威厳が上にあるようになって、民は下に服するようになるのです。

 ⑥今天下を合併させ、大国を凌駕し、敵国を屈服させ、海内を制し、天下の人々を子のようにし、諸侯を臣下のようにしようと思えば、出兵しなくてはできないことです。
 今の各国の君主は王道をおろそかにして、皆教えに疎く、治は乱れ、言葉に迷い、弁士ははびこり、言葉の前に溺れております。このような状況でこの事を論ずれば、各国の王は行うことができないでありましょう」


 ・非常に長い話でした。
 重要なのは、この前段で商鞅(しょうおう)がこの人によって処刑されているということですね。話のうまいヤツは怪しむという風潮があり、もうこりごりだったので蘇秦はその関係で受け入れられなかったということです。蘇秦が活躍の場を求めて秦に来ていた……ということは驚きですが、まあ最初は秦で活躍することを視野に入れていたということなのでしょう。でも断られたので、じゃあ仕方ないから秦以外をまとめる方向で動こうと決めたというわけです。


 ある意味では皮肉というか、商鞅でこりていた秦でいきなりこれだけの熱弁を振るうというのが蘇秦の不幸というか不運だったように思います。しかしそれが功を奏して(?)、六国の宰相を連ねるということに繋がり、そういう独特な文化ができあがることに繋がるのですから、それはそれで非常に重要な後世への流れになると思ってもいいのではないかと思います。






この記事へのコメント

にほんブログ村 ゲームブログ ゲーム評論・レビューへ
にほんブログ村