新戦国策1-22、周の文君が呂倉(りょそう)を宰相から罷免しないことを決める話






 ということで前回は工師籍(こうしせき)という人が自分のアラを言われる前に周君に「弁士ってのは人の悪口を言うのが仕事ですから」と言っておくという話でした。予め言っておけば、工師籍の悪いところについて言われても「まあこういう仕事だからなあ」と思ってもらえると。ワクチン接種みたいな話ですね(笑)
 その続きです。


 周の文君は、工師籍(こうしせき)を免職して代わりに呂倉(りょそう)を宰相とした。(呂倉は不人気だったので)国の人々はこれを喜ばなかった。周君にはこのことを強く憂える気持ちがあった。
 ある人が周の文君に言った。
 「国には必ず毀誉褒貶(きよほうへん、褒めたりけなしたりすること)というものがあります。
 忠臣というのはけなされることを自分のせいだと思い、褒められることを上のおかげだと思うものです。宋君がかつて民にとって忙しい時に、臺(だい、吉に室。台の旧字体。墓のこと)をわざわざ作らせたため、民はこれをそしりました。これというのは、忠臣が上にいく非難を自分のせいだと引き付ける者がいなかったためです。

 その時に子罕(しかん)は宰相の職を辞して司空(しこう、しくうとも。土木関係の長官だが、その関係で治水も携わることが多い)となりました。この時民は子罕をそしって君主を善だとみなしました。
 斉の桓公(かんこう、晋の文公と並び、春秋の覇者と言われる。管仲の君主で有名)は宮中に七つの市場を作り、百人ずつ女子を置きました。国の人々はこのことをそしりました。管仲はこの時わざと三家から嫁をめとり、これによって桓公の非を覆い隠すことで自ら民にそしられる結果となりました。
 孔子の作った「春秋」では臣が君主を弑逆(しいぎゃく)した者が記されておりますが、その数は百を下りません。その逆臣というものは皆人望があったのです。それゆえ、大臣が名誉を得ることは、国家のためにはなりません。人が集まれば派閥を作り、財物が積もれば山ができるのです」
 これを聞いて、周君はついに呂倉を免職することはなかった。


 ・途中、宋君の話が出てますが、注には「その時に子罕(しかん)という者がいて」という風に補ってますが、でもそうなるとやや矛盾している気もします。宋君が墓を作らせても、それをかぶるものがいなかったので直接宋君に非難が来たと。だけど子罕が代わりにかぶりますよと司空をやった、ということになると、かぶってくれるちゃんとヤツいるんじゃないのかと(笑)まあ話のあらをつつくような話ですので、あまりそこまで気にしないでもいいのかもしれません(笑)

 ・子罕(しかん)について調べてみました。
 司城子罕(しじょうしかん)ともいわれると。その後君主となって剔成君(てきせいくん)と呼ばれたようです。
 この話とあわせると悪いことを自分に引き付ける人は裏切りをしない、忠臣だということだったので、この人は裏切って主君になったわけではなさそうです。そして人望は恐らくなかったということなんだろうなと。

 こちらにおもしろい話がありましたので合わせて貼っておきます。
 頭のいい人だったようです。
 ただこの話と照らし合わせると、宝を受け取らない賢者風ではありますが、必要とあらば受け取って強欲さを示すことも必要だというのはあるのかなと。財物を受け取らない=賢者とみがちですが、受け取る賢者という像もあるっていうことは言えそうです。

 ・この話の文君ですが。
 正確には昭文君だと。
 最後の王である赧王(たんおう)の死後の人ですね。秦によって東周は一応滅ぼされましたが、楚を中心として秦を攻撃しようと呼びかけて呂不韋(りょふい)に殺されたということのようです。


 ・この話、表向きの話としては君主と臣下の関係を説いて臣下に人気が集まるのは良くない、反逆の元だということを言っていますが、裏側ということを敢えて意識すれば秦が周を圧迫していることを指摘しているものとも考えられます。
 殷(いん)、周、秦となっていきますが、この時代はまだ周王朝であり、諸国は周に従うべきであるという意識がかなり濃厚にあります。その周を圧迫して、赧王(たんおう)も死に、九鼎(きゅうてい)は奪われた。秦という国はその意味で反逆の臣そのものだと言えます。そして罰せられなくてはならないということも暗に言おうとしているもののように思われます。罰せられても当然であるし、また妥当であるということで君主の意思を肯定しているものだと言えるでしょう。
 ただ問題なのは、楚を中心とした六国同盟をしたとしても、秦というのは呂不韋もいれば、そのすぐ後に天下統一を成し遂げたことを思えば、国力の差は既に圧倒的です。その圧倒的国力差というものを認識できていないというのは致命的だと思います。


 ・この君主と家臣の問題はこの後も歴史上たびたび顔を出してくることになります。
 漢王朝は劉姓です。劉備はその系譜に連なるわけで、孫権のいる孫氏はあくまでその家臣という立ち位置です。そして曹操は王朝を簒奪(さんだつ)する意思を常にちらつけせており、その家臣である荀彧(じゅんいく)はあくまで漢王朝を復興することを意識しており、その意味では曹操に協力しつつも、常に曹操を監視する役割を果たしていたと言えます。結果的には曹操は簒奪しなかったわけですが、その子の曹丕が禅譲を迫り、漢王朝は滅びます。
 そして魏となりますが、その魏王朝を簒奪することになったのは司馬一族です。司馬懿は曹操と同様に直接簒奪はしませんでしたが、その子である司馬昭が行うことになります。
 そしてこの一事をもって司馬懿は歴史上にこの上ない悪名を残すことになります。



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