天才とは?







 なんとなくおすすめに出て来た話だが、意外とおもしろかったのでちょっと考えて見たい。
 「天才」とはなんぞや? という話だが、私の今の結論としてはそれは絵本的に理解される何かだと思う。人の天才さっていうのは、必ずある種の展開の仕方をするんだけど、それの原型って絵本なんじゃないか。絵本という型をもって人の天才的な性質はこの世に出ているのではないかという話。


 ・絵本的に展開されるということは内から外へという発現の仕方をするんだけど、だから天才はいつも外で理解されることになる。やれホームランを何本打ったとか、やれどれだけノーベル賞級の発明をしたかとか。一体その発明がどれだけのものかはわからなくても、ノーベル賞もらえば天才だとなるし、そうならなければ彼は大したことないよということになる。人の理解というのはそうして常に外でなされる。でも果たして外形っていうのはどこまで本質だったろうかと。もしかしたら人の巨大な形のきれっぱしに過ぎないものかもしれない。我々の理解はそれくらい乏しいものだと。理解は本質には到底追いつかない。


 ・これというのをわかりやすく説明する方法ないかなと思ったら、いいのがあった。
 例えば我々は酒を飲む。ビールを5杯飲んだ、10杯飲んだと表現する。どのくらい飲んだか、まだいけるか、強いか弱いか、そういう話に我々はついなってしまうのだが、肝心なことは本当はその酒は美味しかったのか否かであるはずだ。50杯飲んで急性アルコール中毒で運ばれましたとなる、しかし果たしてそれが本当に美味しさのあまりそうなったのかといえば、そういう話は全く聞かない。実際「そんなにお酒が好きだったんだね」という理解をされることはほとんどないのではないか。急性アル中の話はひとまず措いておくとして、何杯飲んだか、やれ8杯しか飲めなかったのか、3杯なんてお前男じゃねえ、みたいな話になるが、もっと重要なことはあるはずが、ついつい我々は酒の話となるとそういう話になってしまう。我々の理解の仕方がこういう理解の仕方をしているということが重要である。


 これが問題の本質を衝いているというのは、例えばごんぎつね読みました、ピーターパンやあしながおじさん読みましたという時に、関わってくることになる。ごんぎつねを読んでどう思ったのか、どう考えたのか、何を得たのか。そういうことが自然と出てくるのが本来重要なことだったはずだ。それは例えば「ごんがかわいそう」とかでもいいし、物語を聞いて理解した、その上でそういう印象が形作られた、心動かされるものがそこにはあった。そういうことが重要なはずなのに、「一時間で二冊読破した、速読すげえ」とか「この話で何匹キツネ死んだんだっけ」みたいな方向になる。これによって本来得られるべきだったものが全く得られないという事態が起こる。経験は経験それ自体であるはずのものが大きく歪む。なんだけど我々は「ごんぎつねでキツネは何匹死にましたか? 正解は1です!」というようなクイズ選手権的に、そしてどのような問題が来ても答えられるような形で適応してしまう。これっていうのは天才というものを形作るための重要な経験に寄与するどころか、大きくその方向性を削ぐようなものであると言える。


 クイズ選手権に強くなるという方向性は基本的に何でもあって、どんな球(クイズ)が来ても叩き返す、イチローを彷彿とさせるかのような
打率の高さが求められていて、センター試験でも二次試験でも打ち返せる無敵のバッターが求められているけど、でも現実にはそういう能力は磨いていたとしても今後第二次センター試験もなければ三次試験もない。ないんだけど今までやってきたことの延長を求め続けるしかないので、それがおもしろいかおもしろくないか、楽しいか楽しくないかといえば全く楽しくないのだが、かつて取った栄光を再度なぞりたいがためにし続けるという現象というのは各所で見受けられるように思う。しかしこれは先の話に戻ると、天才云々とは全く関係ないものであり、あくまで「第二次センター試験対策」や「三次試験対策」でしかない。それで求めるのは何なのか、ということをきちんと考えておかないと、天才を求めるのか、ゾンビを求めるのかということに陥りかねない。一時的にゾンビに見えるものに陥ったとしても、その後をきちんと見いだせていればそれは決して悪いものではない。努力なんてしてるのはバカだ、なんてことを結論にしたいわけではないのだから。


 ・いかに酒に強いか、50杯も飲んだ、100杯目指している云々なんてことはいくら語っても武勇伝ではあっても酒を愛していることには決してつながらない。外堀をいくら丁寧に説明していき、埋めていったとしても決してビールを愛していることにはならない。そうして我々は外堀にこだわる、でも外堀をいくら回っても内へは到達できないということ。この外の問題と内の問題とは全然別物であるということが重要だと。


 ・んで、最終的に何が言いたいかって、もう二年くらいとある勉強していたんだけどこの勉強ってのがかなり相当辛い。オレセンター試験でも目指してたんだっけ? とか、資格試験の方がよっぽどマシじゃね? というようなもので、とてつもなく難しい。そうなるとおもしろくない。 でもそのおもしろくないのを強いる。「勉強」なんでなんでもかんでもとにかく強いる、なんてやっているうちにやりたくない時期もあったりした。この苦痛ってなんでなんだっけ? と思ったら結局外堀を何十周とやってたりするわけだ。オレってなんでこんなことをやっているんだろう、本当は内側のことが好きなはずなのに、とこう考える。でも内側に到達するためにはまず外堀を埋めなければ……そうしてそもそもそれを嫌いになる。そんなことをやっていた気がする。


 そんな中で、冒頭に挙げた動画を見ていて、「まるで絵本を読むように接している」っていう感覚というか、印象があった。そういう感覚をそもそも忘れていたけど、そういう感覚でこのくそったれな「お勉強」にも向き合えたなら、かなり楽になるような気がした。
 長々書いてきたけど、それを書きたかったって話です(笑)




この記事へのコメント

  • dalichoko

    すごい勉強家でいらっしゃるんですね。
    すごいなぁ・・・
    勉強と聞くと触発されますね〜
    私も何度受けても受からない試験があるんですけど、いよいよ目が見えなくなってきました。字が見えないんですよもう。こまったもんです。
    (=^・^=)
    2021年06月22日 20:17
  • きんた

    コメントありがとうございます!(^^)いやー勉強家かもしれませんけど、くたびれましたからねえ笑なんのために勉強してるのかすら見失ってる感があります笑(^^;)お恥ずかしい笑
    コメントの後半部分、感銘を受けました。普通に勉強できるってだけで幸せなことなのかもなあと思いましたね……

    > dalichokoさん
    >
    > すごい勉強家でいらっしゃるんですね。
    > すごいなぁ・・・
    > 勉強と聞くと触発されますね〜
    > 私も何度受けても受からない試験があるんですけど、いよいよ目が見えなくなってきました。字が見えないんですよもう。こまったもんです。
    > (=^・^=)
    2021年06月22日 20:36
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