新戦国策1-15、ある人が周の相国に、斉と秦の間で工作して周の価値を高めろと言った話






 ということで前回は赫(とかせき)が楚将である景翠(けいすい)を周に重んじられるようにしようとした話です。他国の武将を用いられるようにするということがいかに危ういかという話ですね。


 韓・魏・斉の三国が秦に当たり、その攻撃を防いだ。周ではその相国を秦に行かせようとしたが、秦の方で軽く扱われるのではないかと思って行くのを留めた。
 ある人が相国に言った。
 「秦が軽く扱うか重く扱うかはいまだ知ることができません。秦の方では三国の情報を知ろうとしております。そこで貴公は、秦王に会って
 『王のために東方の処遇を聞きたいと思います(三国をどのように処罰するかを聞きたいということが言いたい)』というのが最上ではないかと思います。秦の方では貴公を必ずや重んじるでしょう。貴公を重く処遇するとなると、これは周を重くして秦の心を取ることだと言えます。
 斉は重い国でありますから、周を保つことは斉を取ることに等しいと言えます。これによって周は常に重国との交わりを失わないのであります」


 ・最後の方、訳したのですが結構意味不明でした。
 ただ注を元に考えて見ると、言いたいことは要するに天秤みたいなもので、斉と仲良くなればなるほど斉の情報を多く持ってますから秦にとっては重要になるし、その逆で秦と仲良くなれば同じ現象が斉との間に起こると。なのでどちらと仲良くなっても周にとっては利益が大きい。そういうことを言おうとしているように思います。


 ・これは現実の人間関係でも同じことが言えるように思います。できるだけ多くの誰とも話せる人というのは、つまり人脈が広いと。そうなると紹介して、とか何々に詳しい人はいないかなとなった時に照会できたりする。そういう人脈の素晴らしさを説くならば、まさにこの話はぴったりくるでしょう。


 ただ欠点もあります。たくさんの人と話せるのは確かに利点かも知れませんが、それはあくまで目的としてあるべきものではなく、結果的に達成されるべきものだと言えます。一昔前、「人脈」といえばもう最善ということで飲みに行ってガンガン仲良くなるのが当然みたいな風潮はありました。今もあるかもしれませんが。
 でもそれで飲む回数が増え、努力していない状態が続くとすれば、その人がどのようにすごく、具体的にどのようなことが素晴らしいのか、その事自体が薄れていく感があります。結局それは伝手さえあれば必要性のあった時にソイツに話を聞けばいいというのがありますが、そもそもいつソイツが素晴らしいことに気づくのか。そういう意味での矛盾があったように思います。そういう風潮は今でもかなり根強くあり、この社会の風潮が個人の能力や努力以上にノリの良さみたいなものを求めるのも決して無関係ではないように思います。人脈はある、データベースはある、人材はいる。でも一体それをいつ活用できるのか。「無限の可能性」を言われつつも、一向にそれを発揮できる機会がないというのが例えば氷河期世代だったりしたのではないでしょうか。


 この話の周も、自分ですごくなるというのは非常に難しい。でもこうして斉と繋がり、秦と繋がって自らの価値を高めていくことはできたでしょう。そうなれば楚、趙、燕、魏、韓とどことも仲良くなることはできたでしょう。
 しかし最終的には秦に滅ぼされることとなったわけです。結局、実質的に、かつ具体的にどのような形ですごくなろうとするのか。それを見出さない限り、自らの価値を高めに高めていった末に滅ぶと。そういうことは起こるように思います。


 ・最後に余談をして終わりますが、以前三国志のゲームをしていてある時司馬懿でやったことがありました。
 武力100、知力100……とやっていって能力はすべて最高、特技や戦法もすべて覚えており、究極の武将となりました。その時点で、齢80。究極になった次かその次の月くらいに死にました。これって今でも印象的でよく覚えています。
 究極完璧を目指すのはいいですが、なった次の日に死んだら意味がなくね? それなら不完全でも楽しく生きた方がいいんじゃね? そういう感想をもったことをふと思い出しました。



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