ケチという概念の変遷






 最近ふと思ったのが、吝嗇(りんしょく)……要するにケチということだが、このケチという概念自体がここ数年で大きく変わってきていないか? とふとそんなことを思ったので書いてみることにする。といってもここ数年が実際には数十年かもしれないし、あるいはここ一年程度かもしれない。まあそんな細かいことはいいからとりあえずババッとまとめてみるかということだ。言葉足らずだと思うが、まあ詳しく言うのはめんどくさいのでざっくりと書く。いろいろ矛盾もあると思うが、まあごった煮もいいかと。感覚的な文章。


 ケチってことの裏側にはどうやらブラックという概念があるらしい。それで、相手をそのブラックな構造に落とし込まないとどうやら満足出来ない、というのがここでの言いたいことになる。さらに言えば、その構造に相手を落とし込むことによって得られる利益、つまりは利益的な意味合いもあるが、主には精神的な満足感、それを最大化しないと気が済まない、そういう事態があちらこちらで見受けられるようになっている気がするのだ。例えば頼まれごとがあったら時間も手間暇もめんどくさいというので断る。しかし本当にみているのは時間でも労力でも手間暇でもない。むしろ暇だし労力も時間も有り余っているので、やってやりたいとすら思っている。ところが、問題はそのブラックな概念であり、その構造に当てはまらないということである。その構造との一体化が果たせていればいるほど満足度が高いのだが、でも意外と99%程度しか当てはまってない。そこに不一致と、満足感の至らなさを見出す。
 つまりは具体的に何かって、中華主義ということになる。「貴方様にやっていただけなければ、非力な我々共ではいかんとも致しかねる状態でございます、なにとぞ、なにとぞご助力のほどをよろしくお願いいたしまする」というような形式+土下座があって、初めて「よし!」と重い腰が上がるのだ。まあそんなのは言葉だけで、やることはある種の作業ということになるのだが、同じものでも奴隷としてやるか、それとも「オレでなくては務まらない高貴なる作業としてやる」のか、これで内部的には全然違ってしまうわけだ。そして案外そういう一押しで事態はけっこう進んでしまったりもする。まあそれが次には作業の進捗状況と一致するか不一致なのかという問題がくるのだが。


 これっていうのは恐らく実質的奴隷……という建前ボランティアということと同じ構造なのではないかと。ある作業をボランティアとしてやるのであって、奴隷ではない。酷使されてやるのではない。それによって誰かが甘い汁吸っていようとそんなことは関係ない。そういういわば高貴な精神というものがある……その高貴さというのは、恐らくそのブラックな構造から、少なくとも精神的には免れているという思いから生じている。しかしその主催者からすればそんなことはどうでもいいことで、要するに無料でしかも自分の思った通りに動いてくれればいいという思いがある。財布は潤うのだ。こうしたブラックな構造を主体的に動かすものと、精神的には免れている者との対立構造、みたいなものをよく見かける気がする。片方は得られる利益の最大化を目指し、方やその構造自体から少なくとも概念自体は抜け出す。つまりはブラックな構造そのものの影響を無化しようとする動きがある。方やその構造を強いるものであるが、方やその構造を受け入れざるを得ないとしても、少なくとも精神的には自由でありたいと思う心の動きがあり、そういう葛藤が事態を進めている。


 ケチるということはこうした構造を背景にした上で、できるだけ労力を減らしたいというよりかは、できる限り構造から逃れたい、あるいは構造に抵抗する手段として我々が持ち得る態度だったのではないかと。そういう意味での現代的な人間らしさというものがこういう形で表れているのかもなあと思った。
 ……まあなんか書いてていろいろ矛盾しているような気もするが、まああまり気にせず終わることにする。







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