タクティクスオウガ㉙生きることと引退、評論との乖離






 バルマムッサに関しては様々な見方があるのは確かであり、一方的に正しさを押し付けるとどうしても歪みが生じることになる。それを敢えて承知して、むしろその歪みを認識し、楽しむという見方もあるのではないか。ふとそんなことを思った。思ったので書いてみることにする。


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 ヴァイスはこうして人々を前に訴えかける。しかしその思いは空回りするばかりである。
 この空回りというのは何から生じているかといえば、プレイヤーと引退者との間から生じている。プレイヤーというのは人生を生きる者としてのプレイヤーであり、それが若気の至りであろうとも、騙された一過性の熱によるものであろうとも、その理念に基づいて世界を変えようという熱意はそこにある。ガルガスタンによって支配されたウォルスタ、そしてこのバルマムッサ収容所では老人は戦うことを選ばない。なぜ選ばないのかと言えば、そんなことをしても何も変わらないという諦めであり、そして何よりもう年だから戦えないという気持ちがある。そもそも年だから戦えない、戦えないから戦わないのである。それの意味するところは何かといえば、人生から既に引退しているということだ。プレイヤーでないということが意味するものは、引退である。プレイヤーでないということは評論だという錯覚があるが、それがどのような評論であろうとも、たとえクソのような評論であろうとも、プレイヤーを支援するのが評論である。
 引退者にはそれすらない、これが評論と引退との決定的な差異だと言える。次世代の誰かがそれによって困ろうとも、知ったこっちゃない。今さえよければそれでいい。こうして根本的解決を放棄し、一時的な対処に満足する。



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 彼らに見えているのは自分たちの安息である。人生からの引退者に言うことは酷な事ではあるのだが、その思いと決断とが一体次世代にとってどのような意味を持ってくるかということが彼らには認識されていない。いや、正確には認識されている。死なないし、食べ物もあるんだから満足した方がいいんじゃない? 以上、ということである。その思いというのは、次世代に大きく掛かってくることになる。殺されても文句が言えない、後になって後悔しても後の祭り、そういう状況に加担しているのは彼ら自身であるということが彼らにはわかっていない。そして加担していようともいなくても、後先短い彼らにとっては恐らくそんなことはどうでもいい問題であるに違いない。その意味での世代間ギャップというのはある。
 先人は選べた。しかし後世の人間は選べない。
 先人の決断に、後世の人間は常に左右されることになるのだ。



 ・同じようなシチュエーションはオウガバトルでも描かれる。
 強大な帝国の前に、ギルバルドは故郷のため人々を守るためにと降伏することを選び、その結果ギルバルドは「帝国の犬」とさげすまれることになる。誇り高い人々は、勝手に降伏したギルバルドを許さない。中でも親友カノープスはギルバルドの気持ちが分かっており、戦って独立したいという気持ちを抑えて、何もせず腐って世の中を斜めに見ては嘲っている。ここでの彼はいかにも評論家らしく言える。しかし評論家ではない。否応なしに引退に追い込まれたために、愚痴の吐きどころを見つけては愚痴を吐いているだけの存在である。



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 ギルバルドの気持ちを誰よりもわかっている。
 故郷を愛し、人々を守るために罵られることを受け入れたギルバルド。
 だからこそカノープスは戦って帝国から独立を勝ち取ろうと。一緒に戦おうとギルバルドを説得することを決意する。
 否応なく引退していたカノープスは、こうして現役に復帰する。


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 「見せかけの平和」
 「虚像」
 この言葉はバルマムッサを体験した我々にとって大きく響くことになる。
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 人生を引退した老人たちによって引きずられるウォルスタの未来は奴隷という屈辱的な生活を子孫に強いることになる。独立を呼びかけるヴァイスの言葉だが、カノープスにとっては懐かしいものでもあっただろう。


 確かにそれによって一時の平穏は得ることができる。
 しかしそのために未来を、未来の可能性であり多様性のある選択肢を失うことが果たして真の平和であるのか。表面的な効果だけを求めるならば、それは確かに平和だと呼べるかもしれない。しかし一過性の対処によって次の不具合や不自由を招き入れるとすれば、それは平和ではなく地獄への入り口を意味するものではないのか。そういう意味での概念的な、対処と解決との乖離であり、その差異を埋めるための努力というものは、この世を生きるプレイヤーには常に必要なものではないかと思える。







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