言ったとおりに「こころ」は休止するわけですが、でもそもそもこれの続きを書いた方がいいのかどうかって言うことに関してはずっと迷っていますし、その迷いが文章から現れているような気が薄々はしています。
この世界にあるバグみたいなものがあって、この「こころ」というのもそのバグを表しているものの一つだと思うんですけど、でもそのバグを表すことっていうことは果たしていいことなんだろうか。というより、そのバグっていうものはとてつもない吸引力があって、私自身それに人生の大半を費やしてきたわけですから、多分そういうことに触れない方が人は穏やかに幸せに世の中を渡っていけるのではないかと思いますし、むしろそういう方向性とは逆行する性質があるというのは思います。そういうものがあるということを示すことは、もしかすると漱石が「こころ」を遺しているわけですが、もしかしたらどこかで誰かの気休めにはなるかもしれない。しかしそれが同時に救いを意味していないことは明らかです。そして私自身そうした救いの方向性を見出せていない以上安易に深堀するよりは、あくまでそういうものがあるという方向性を示唆するにとどめておいた方がいいんじゃないか、とこういう風に考えています。そうでないとこれは無責任極まりない話になりかねない。そうしたバグに触れるくらいならば、Kは失恋して死んだ、先生は御嬢さんを奪ったが、良心の呵責の前に死んだというぐらいの解釈をしていた方が人生幸せなんじゃないだろうか。
もしもそうしたバグに触れることがなかったならば、幸福にはなっていなかったかもしれないが、生産的であったろうことは間違いないことです。そのくらい強い力で引きずり込まれるのがこのバグであって、その意味でこのバグは人を生産的な生き方から遠ざけるものではあって、その結果として人の生きるべき道すべてを封鎖するような性質があると。こういうものを説明するよりは、示唆するにとどめて、そうはなるなよとだけ言って世界から忘却されるように努めるというのが大人の態度ではないかと。確かにそれは一種無責任なものですが、かといって他にいい手も特にないわけですから、まあこれが取りうる中で最善だと思います。
書かないとか休止するといっても考えてしまうだけに非常に厄介であって、本当に身体ではなく人生に寄生虫が食らいついてまともに生きる術を失っている、それほど厄介なものだということです。ここまで書いて、あーもう「こころ」はノートも含めてすべてしまってもう考えないようにしようと決めました。
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