ということで、「こころ」は一旦忘れて一年後くらいにでもやろうかなと思っていたけど、そう思うにはどうも気になって仕方がない。とはいっても別に今格別思いつくこともないため、結局はまた機が熟した時ということになるのだろうと思うわけだけど、とりわけ気になるのは「こころ」というものの構造であり、その仕組みということになる。そもそもがこころの問題であるならば、これは心理学の範疇で取り扱われるべきだっていうことは以前にも書いたように思うのだが、もしもこの「こころ」というものが心理学ではなく文学というもので扱われること、それに妥当性というものを見出すならばそれを心理学で語るには不適当だ、あるいは文学ならば適当だというような事情というものがあるはずである。じゃあそれは何かと言った時に、飛行機が飛ぶときの滑走路のようなものをふと思い浮かべたわけだ。これはあくまでも個人の話であるし、主観的だと言われても仕方がないのだが、自分の「こころ」というものの仕組みとか構造というものを考えるうえでこの「こころ」という作品はなぞらえるのに非常に都合がよかったということがある。それをたまたまというにはあまりにもしっくりときすぎた。それはこういう心根があるから良い悪い、という良し悪しで測るようなものではなく、どうもそれというのは「そういうものだ」という風に理解をした方がいいのだろうと。人の心などは千差万別で、これと言った間違いなくこうだといえるような基準などはない。かといってじゃあ自由だからと言って半数は善行をし、半数は悪行をするというようなものでもないわけだけど、少なくとも言えることは、人の心の仕組みというものはある程度の型にはまったような構造はあるということではないか。それはつまり何かといえば、ある程度機械的に決まるものというのはあるということであり、Aというボタンを押せばBに、その次はCにという風に連鎖的に連なるものというのは確かに存在する。ただ人というのはそうであることを嫌うもので、仮にそうだとしても「いや、オレは自分の意志でAを押したし、その次にB、Cと連なって行ったのはただの偶然だ」と言いたいということはよくわかる。それを含めて、人の心というのはある程度機械的なものがあるし、ある意味では機械的に破滅もすれば、機械的に生きもする。人に特別の理由がない限りは、理由もないわけだから破滅する必要もないわけである。それというのはつまり、行先の決まった飛行機の乗る滑走路……その道を行かねばならないという意味で、専用に用意された滑走路があるということになる。少なくともそれは普段破滅の方を向いていないわけだから、破滅する理由はないというわけである。
・その意味において先生という人は、破滅の側に滑走路が伸ばされてしまった人だと言える。破滅する理由は先生にはないわけだけど、でも滑走路が破滅の方を向いている以上は破滅しないわけにはいかない。そういう空気感の微妙なニュアンスというのは個人的には非常によくわかる。破滅する理由は本人にはなく、別に破滅しなくてもいいわけだけど、でも滑走路が破滅に向かって伸びている以上いつかは破滅しないわけにはいかないのだと。一度そうなってしまうと破滅することが目的となって、生きていることが全て破滅に向かって突き進む以外になくなってしまうわけだけど、この問題……つまり破滅という目的地と、人生そのものがそれに向けての滑走路となること、そしてそれに向けて強烈な使命感を燃やすこと、こういう事情というのは心理学的にどこまで説明がつくのだろうかと。というより、それは明らかに妄想で、そう見えるのは錯覚であり、精神耗弱による一過性の現象だと言われた方が余程しっくりくる。
それはそうなんだけど、この①今自分がここにいることと、その心情➁目的地③目的地までの滑走路というこの三つ、このたった三つがバグによって全て破滅に向かう事態というのは現にある。そしてその理由などない。現に目的地が破滅となっているわけであって、それ以上に理由は必要ない。現にあるこの現象に対して、心理学というのは非常に脆弱なのではないかと思われるのだ。
「なぜ目的地は破滅なのですか」
「なぜって、現に目的地は破滅だと示されているからです」
「ああ、あれは間違いですよ」
という具合に簡単に修正されればよいが、時間は迫っておりこちらとしてもその便を使わないわけにはいかないので、結局破滅に向かって突き進まざるを得ないわけだが。この現状を示すものというのは心理学ではなく文学ではないかと。こうして浮き彫りにすることで「ああ、それは明らかにヤバいね」と示されることで、ああこりゃまずいぞと認識し、なんとかしようという流れを呼び込むためには、文学というものが必要だったのではないか。
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