「こころ」で消耗しきった上にさらに消耗して、いまだかつてないほどの鬱状態になってしまい戻るのに大分時間がかかってしまった。そんな中「マンガワン」ってアプリで「響」って作品を読んでちょっといろいろ考えたのでまとめたい。4/9までアプリでやってるようだから機会があれば読んでみてはいかがだろうか。
・一日で一気に二周するくらいにのめり込んだわけだのだが、一周目は本当にひたすらのめり込む感じだったが二周目はなんとなく落ち着いた感じで読むことができた。細かいアラとか矛盾とか違和感とかはあるにせよ、賛否両論ある作品ではあるが個人的には好きな作品だなと思った。
・結局天才だって平凡にやるしかないし、平凡な人間だってどっかで打開するために天才にならざるを得ない。そうやって尺取虫みたいに進んでいくのが人生なのかなと思った。この世には天才も凡人もいるわけだが、言うほどどちらも大差あるわけではなく(まあ明確に差はあるわけだけど)、天才だって凡庸な面はあるし、平凡な人間にだってキラリと光るものを持ち合わせていたりもする。でもその選べる範囲の中で、どれだけ天才度を上げていくか、あるいは凡人度を上げていくかってことはあるなと。その意味で我々って望んだとおりにけっこう人生を切り取りながら生きているなって感じたわけです。その中でじゃあどれだけどんな人生を選ぶかってことにはそれなりの責任がかかってくるなと。確かに運とか成り行きってのは我々の人生をある程度決定しているし、それは別にすべてというわけではない。全てというわけではないんだけど、まるで我々はそれが100%すべてであるかのように愚痴を言ったりする。本当はできるだけの範囲とか裁量とかを持ち合わせている上に自由さも持っているんだけど、そんなものはいかにもない、全力で生きているんだというように言っていたりする。まあこれを突き詰めると「じゃあもっと真剣にやれ」的な北朝鮮風な結論になりかねないんだけど、ここでは別にそういう結論を持ってきたいわけではない。人が自分の意思で自分の思い通りの人生をかなりの部分コントロールできている上で、その状態を望んで選び取っているということが問題ではないかと思うのだ。
しかし望んで選び取っている実態はあるのにも関わらず、自分ではそうではないと認識している。その範囲は可処分であるのに関わらず、不可処分であるという誤解がある。こういう錯覚というものを抱えるということは、以前であればおかしいとか思いもしただろうが、今となってはそういうものだなあと。完全に決定されていては窮屈だし、自由がないと気持ちよく生きていくことができない。そこらへんにうまく折り合いつけながら生きているということだし、またそうでなくてはならないということでもある。そういう実態を踏まえるということが大切だなと。人ってのが思った以上に誰も望んだとおりの人生を選び取っているし、意外とドンピシャでそのベストな人生というものを24時間365日の労力かけて掴み取っているということ。そこには平凡には平凡の意味があるし、天才には天才なりの理由というものが意外ときちんとした形であるってこと。それはもうそれこそ、愚痴を言いたいがために生きる、ということさえも意外と理想的な人生の形だったりするってことでもある。
・そうなると何が重要かって人生を例えば「x」と置くとする。この「x」っていうのは平凡であるという不満があるだけかもしれないが、平凡でないということも不満だったりすることがあり得る。同じものを得ているのにもかかわらず、同じものがそこにあるだけなのにも関わらず、それに対する感想となると全く別のものがあったりすると。結局そこにあるものはあるものだし、「x」は「x」だってことは変わらないのにも関わらず。まるで我々は不満をそもそも持ちたいかのようにも見えるし、不満を持ち愚痴をこぼすことが使命であるかのようにすらみえる。平凡なら平凡なりに満足ができず、平凡でないなら平凡でないなりに満足ができない。それをそう見る、不満と切り離してみるということがいかに難しいか。
これをこう考えた時に自然と思えてきたのは、「絶望」ですらもその「x」だってことだ。逆なのかもしれないと思った。不満を持ちたいかのように生きる、だとすれば我々は絶望を持ちたいから生きるということもあるのかもしれない。絶望したいからこそ、絶望する……そういう現象も中にはあるのかもしれない。そういう形もあっても不思議ではない。そう思うと、結局オレが得た「x」というのは確かに絶望的ではあるかもしれない、でもそれっていうのは平凡に生きて口にする不満というのとは異質なものだということが自ずと感じ取られてきた。絶望には絶望の意味があるし、その既にある「x」からそれ以外のものを導き出すということだってできるはずだと。なぜならそこにその絶望は現にあるわけだから。
そう思った時に初めてその「絶望」の塊は絶望ではなくなり、「財産」の塊だとみなすことができそうな気がした。疑問あるところに道は開けるというが、その意味では確かに絶望の先に道は用意されていたのだ、と思う。いや、単純にそうみなせるというわけではない。絶望で鬱っぽくなって、それでもいろいろとやってきたことがあって初めてその道が財産であると言えた。その意味では決してムダではなかったんだなと思った。
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