「こころ」を書くのに疲れましたので(笑)、しばらく書かないことにしようかなと。自殺した人の心なんてのは自殺しないとわからない……ということはないわけですが、実際評論とかでもそんなことはないわけですけど、なんかそんな勢いで書いてしまうのがヤバいなと。その書いた結果が自分のまとめとかにもなるのでこれは便利だなと思ってましたが、考えてみればそんな動機で進められることが恐ろしいことで(笑)まあ「こころ」をこうだと思うところまで追究できるってのもいいんですが、いいねいいねでやってたらけっこうギリギリまでしのぎを削るような形になりましたね。
ということで久々に完全にムダな散歩? をしていましたら、頭とか心とかがカチカチに凍っていたのが氷解していく感じがして、ああ、相当負担がかかっていたんだなと。ホント暇さえあれば「こころ」の内容を考えている有り様でしたから。
で、その時ふと思ったのは、「不幸だ」って言えることは幸せなんだよってことです。それがなぜ幸せの形かといえば、単純に幸せというプラスがあるとすれば、不幸はその逆でマイナスだなと。だから「不幸だ」って言えるということはその人の幸せの分はそれで埋まっているということになります。まるで、カルピスのビンがあったとして、生の(きの)カルピスがいいに決まっているんですが、でもその分をそれで埋めることも十分できるわけですね。100倍、10000倍、1000000倍に薄めたくっそまずいカルピスによってそのビンを満たすことはできるんです。そしてそういう人は意外と多いんだなと。その意味では誰もが一人一人違う形での幸せを目指しているわけですが、でもその内容はどうかといえばけっこう怪しい。本当に望んだようなビンになっているかどうかはかなり怪しいなと。
その怪しさってのはどういう怪しさかといえば、100mlのビンだとして、一年で1mlずつ溜まっていくわけです。でもそれを本当に望むようなものによって満たすということが果たしてどれだけできるか。人が一生かかっても、それが目指した形であるということなど極めて珍しい。でもそれはビンが満たされているから一応「幸せか?」といわれれば「幸せだよ。だってビンがいっぱいだもん」と答えられる。でもビンの容量など幸せとは全然関係ないんですよね。それどころかそのビンは最後の最後に中身によって裏切られるかもしれない。最期の最期になって、「本当は私、あなたのこと、嫌いだったの」と告げる老妻の話が先日ありましたが、ビンはいっぱいでも中身の偽物51によって本物49が裏切られる瞬間は何時の日にか来るかもしれない。あるいは偽物70と本物30でなんとか拮抗していたはずのものが、最後に踏ん張りがきかなくなり、破綻してしまうことがあるかもしれない。
だから何が言いたいかって、「オレは不幸だ」「あの時ああでなければ」「あああの時もしもこうであったならば」と言い続けることは、幸せになることなんです。幸せになる近道なんだってことなんです。そう言い続けていればビンの中身を蛇口ひねって強引に何mlでも満たすことは出来るんだって話です。薄くてまっずい人生だったが、でもとりあえずいっぱいになったよねと言える最大の近道はそうなんだよってことです。そしてその生き方は全然間違っていないってことです。誰だって言ってるわけです、能力がない、やりたいことがない。やるべきこと以外やってる余裕がない。それはそれで全然いい。なぜそう言えるのかって言えば、それによって人はやはり幸せを目指しているから。自分にとってのその100mlビンを一生懸命いっぱいに満たそうとしているわけだから。カルピスであっても水であっても何でもいいからとりあえずいっぱいにしたいと思ったからそうなっているわけです。つまり人は幸せになりたいんだと。
だから幸せになりたかったら幸せになりたいと思ったら精一杯愚痴りましょうよってことです。あれが悪いこれが悪い、あいつが悪いこいつが悪い、運が悪いああでなければってもっと愚痴ればいい。そうすればみんな幸せになれるから。でもついさっきそれは偽物って言いました。確かに偽物です。でも誰が「オレこそは真に幸せだ」といえるかどうか。みんないろいろ我慢しているし、そうしてそれなりの幸せの形を掴み取っているわけです。だとすれば、少しくらい偽物が混じったくらいなんだってことです。それを言うことで前に進めるのであれば、ガンガン言った方がいい。
でも「そんなのはイヤだ」というのであれば、やっぱりがんばるしかないよねと思います。まあ結局はどうにかこうにかして、そのビンの総量だけでなく、その充実を100%に近づけようとしてみんながんばってるよねってことです。
この記事へのコメント