・中東の方にとあるジョーク話がある。
サソリが川を渡りたいので待っているところ羊がやって来た。
サソリ「向こうまで乗せてってくれませんか」
羊「いやだよ、渡っている時に刺すつもりだろう」
サソリ「そんなことしないよ。第一そんなことしたらオレまで溺れちまうじゃないか」
これを聞いた羊は安心してサソリを背中に乗せて川を渡り始めたが、川の半ばまでくると羊を背中から刺した。
羊「なんで刺すんだよう。刺さないって言ったじゃないか」
サソリはこれに答えて言った。
サソリ「忘れたのか。オレはサソリなんだぜ」
こうして羊とサソリは流されて行きましたという話である。この話っていうのは意外とバカにならない話で、そんなことしても誰も得しないどころかサソリにとっても流されてしまいまるで自殺したいかのようにも見える話だが、オレもそういう目に遭ったことがあるもんだからこれっていうのは意外とリアリティある話だなというのは非常によくわかる。別にサソリって話じゃなくて、人だってそれをしても一円にもならないし誰も得をしない、プラスを考えればそれによってみんなプラスになる可能性すらある、それなのによりによって全員まとめて破滅に向かうという場合があり、それを選んでしまうという奇妙な時がある。
プラスに考えれば、利害損得だけでなくその枠を越えて人は生きることもできるという意味でのある意味いい例だと思う。こういうバグも人には仕込まれているのだ。マイナスに考えれば、みんなもしくは誰かがプラスになる可能性があり、少なくともそれによってマイナスにはならないというような好条件でも、人は選ばない時があるということでもある。それどころか全員にマイナスを与えたいがためにマイナスの選択肢を積極的に選び取ってすべてを破滅させることすらある。人という生き物の奇妙な特徴の一つはこれだと思う。プラスであるから選び、マイナスであるから選ばないのではない、利害のみに従うのであれば弾いた電卓の結果に従うのが当然の結果ではあるのだが、時として人はそのマイナスを全員に味あわせたい時もある。
最初はこれを想定外のバグであり、誰がそんな馬鹿な選択をするものかと思っていた。そんな愚かなことであり、すべてのプラスの可能性を潰すなど、よほど計算の下手なヤツのした計算ミスによるものだ、つまりは誤解に基づくものだとばかり思っていたが、意外とそうではなかった。それどころか計算をして、プラスの可能性がある、だからこそ潰さなくてはいけないという奇妙な使命感を燃やすようなヤツもいる。つまりは何かといえば、これはバグとしては想定外の話をしているわけではなく、あくまで想定内の話をしているということだ。つまり人はそれを気に食わないと思うことがある。気に食わないのであれば人は利害を越えてそれを潰すということがあると。
・一応早い段階でKの死については、これは意味のある自殺ではなく、極めて意味の薄い自殺であるということは書いたと思う。文学としてはそれ以上の解釈はできないし、そもそも書いてあること以上のことを「こうではないか」と書き出すということは極めて難しい。それは根拠が全くないためであって、まず根拠ありきで進んでいく姿勢に比べれば極めて弱いものになると言える。そうなると想定というより、空想の域に近いものだと言えるだろう。そうなると当然「書いていない」ことについての想定をすることは極めて難しい。
しかしそうなると、全く無意味な自殺というものはそもそも可能であるものだろうか? 人生に悲観して自殺した、とか失恋したショックのあまりに、という方が余程人間味があって人間らしいと言える。それがいくらなんでも、恋愛感情をもってしまったぼくは救いようのない馬鹿だ、という理由で自殺ができる、人はそういうものだ、というのはどうも現実味がなさすぎるのではないかと思える。いくらなんでも、「高すぎる理想に対し低すぎる現実の自分」というものを見て、死のうと思ったというのでは現実味がなさすぎるのではないかと思われるのだ。
それを思えば、確かに卑怯な手を使いはしたが、その上を行くさらに卑怯な手を使って先生が出し抜こうとしてきたことをKは看破した。だからこそ、自らの破滅という手によってすべてを破壊する、特に先生の内面をボロボロになるまで破壊するという手を使ったという方が案外妥当性があり、現実味もあるものだと言えはしないだろうかと。
確かに、無目的に行ってしまえる自殺も中にはあるのかもしれない。
しかしそれよりは、「中東のサソリ」のように、人にはすべてを仲良く破滅させるためならどんなことでも選んでしまうことができる性質があるのだと。それを踏まえていけば、Kの復讐心、そして無目的に見せて中は憎悪に満ち満ちた行動というものを見て取ることも不可能ではないし、無目的だと取るよりは案外よほど現実味があるものかもしれない。
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