「こころ」/夏目漱石についての読書感想文その32(順当なバグ)






 ・ということでもはや夏目漱石と「こころ」の範囲を大幅に逸脱し始めている感がありますが、まあそれもいいのかなと。急がば回れとかいうし(笑)
 まあそれに、前も書きましたが大学生だった頃に図書館で本を求めて延々とさまよっていたこともあります。多分五年で数千冊くらい読んだんじゃないのかなと思いますが、これだというほどしっくりくるものをとうとう見つけられなかった経験があります。世界はこんなに広く、本はこんなに多く、知恵者は多く、叡智はこんなにもある。有名な人も多ければ偉大な人も多い。ところがオレのこのもやもや感(しかもそれが具体的に自分でもよくわかっていないという)を満たすような本は一冊としてなかった、なんと虚しく、無力なのか。そういう手ごたえがあります。それを思えば、この「こころ」というのはある意味ではその何かに最も近い何かであって。その意味ではもう「こころ」は主役でなくてもいいのかもなと。時々主役やってくれて、時々端役やっててくれればよい。


 そもそも文学とか哲学とか嫌いなんですよね。哲学とか「こうだよね」と思ったことを言ったとすれば「いやそれは主観的だ」となるくせに、「カントはこういいました」「ヴィトゲンシュタインはこういいました」というと「おおー」「ふむふむ」となるじゃないですか。それは同じ主観であるはずなのに、偉い人が言うと急にそうなのかとなる。その何が許せないかって、本気で問題に向き合うのであれば、問題解決に向き合おうとすれば誰が言おうと内容が重要なんであって、別に誰それが言いましたとか一切関係ないと思うし関係ないべきなんです。本気であれば。それを「カントがなんたら」「やれ古典派がどうこう」とかにこだわるのは、要するに必要性がないからであって。そういうことをいちいち授業で思ってたもんだから、やれ文系学部が衰退してお金がうんぬんとか言っていると、身から出た錆以外の何物も思わなかったですね。やる気とその必要性がそもそもないんだから潰れて当然だと思ってます。


 ・ということなんですが、昨日の子ザルの死んだ母ザルが死後も子ザルの遺体に世話をしてやるということ、それがどこまで死を認識しているのかはかなり疑問です。しっかり認識しているようであり、あるいは全然認識できていないようでもある。その微妙な境というのが我々に対してどうなんだろうかと疑問を起こさせるわけですが。それがどのようなものが答えであるかはわかりませんが、それについての印象でグロテスクな忌まわしいものを我々が感じるということ、あるいはそこまで深い愛情があるのかと。人でも親が子を、子が親を殺すというのに、サルの方がよっぽど愛情があるなと。そうしてその親子の情愛に感動して涙を流すとか、そこに美を見出す、つまりは我々の美意識が触発されるというのはあると思います。そのどちらにせよ恐らくは正解で、同じものに対し方やグロテスクを見出し、方や真実の愛を見出し感動する。これというのはどちらが正解であり、どちらかが誤りであるというよりは恐らくは同じものを美意識というフィルターを通して見ているに過ぎないんだろうなと。それは例えて言えば唐辛子をぶっかけられた料理を口にして、辛い、だけどうまいとなるか辛い、だから食べれないとなるかは人それぞれですが、それは要するに「辛い」という中心にくるファクターがあってのものだし、それを我々個々の舌を通して「うまい」「食べれない」となるのも全く同じことなんだろうなと。だから「うまい」「食べれない」→「辛い」となるように、「グロい」「感動した」→「ある種の何か」であると考えられると思います。その中心的な要素というのを「辛い」というように単純には言葉にはできないんですが、我々が対応しているのは恐らくはその「何か」なんだろうなと。その一見バグっているように見える何かを見て、我々が思う「何か」ってのはあるなと。つまり我々はそのバグに対し精一杯「何か」によって対応しようとしている。その具体的な形というのがグロいと思う、あるいは感動なんだと。


 ・ところで何回か上げているサルのバグに関してだが、これというのはバグの中でも正常な範囲内でのバグだということができるだろう。というのは、子ザルが100%絶対に死なないなどということはあり得ないことであり、確率は低くてもある程度想定された範囲内における死であるということができる。そうなると、母ザルに対し起きたバグというのは、あくまで正常な範囲内での死でありバグであるということが位置づけできる。異常な範囲外での死でありバグというのは、100%間違いなくそんなことはないと想定されていたが、想定外なことに死んでしまった。想定が全くされていなかった。そういうバグが異常な範囲での死でありバグだと位置づけることができる。


 ・先生の周りに起きたことというのは想定外なことがあまりにも多すぎるというのが一つの特徴として挙げられるだろう。まさかKが自殺するとは思わなかったということも想定外、奥さんに対してなぜか謝りたかったから勝手に動いて謝罪したというのも想定外、そして気づいてみると自分の姿が叔父そのものだと気づかされたというのも想定外の出来事だった。「お嬢さんを私にください」ということは何日も前から想定していたことではあるが、その結果怯えるハメに陥ったことを考えると、これを全て想定内だということは難しいようにすら思えてくる。たったその一瞬先のことでさえ想定できているようには思えない。先生の気質からしてKに対して勝ち誇るということはあり得ないことだったろうが、かといってバレやしないかと怯えるというのも奇妙な話である。これというのは先生という人の想定がいかに狭いものであるか、そしてその一瞬先までしか想定が行き届いていないということの証拠ではないかと思えるのだ。


 ・それを思えば先生にとってのバグというものはなって当然のバグだと言えるのではないかと。というのは、想定外のことがあまりにも山積しすぎて処理しきれなくなった、そうなると当然のように人はバグる。そういう意味での想定外の積み重ねによって引き起こされた当然想定され得る範囲での、想定内のバグというのが先生にとってのバグなんじゃないかとこういう風に思える。もしもそれが積もり積もってもバグらないとすればそれというのは明らかに異常だとみなしてもいいものだと思うけれど、そういう形ではない。そして先生も当然のようにまとめきれてない。混乱の様子がある。したがって事態をそういう風にみなすということは決して間違ってはいないのではないかと思えるのである。




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