「こころ」/夏目漱石についての読書感想文その25(先生についてのまとめ)





 ということでまとめますと、Kの死の時点では先生の内にあったのは一過性の不安、一過性の罪悪感、そして強烈な依存心(そしてすっころばされた依存心)といったものだと言えるのではないかと思います。
 一過性の不安というのは、先生がズルしてしまったことによる不安であり、それがKにばれやしないかと怯えるような性質の不安です。
 一過性の罪悪感というのはそれとかなり近いもので、「Kが失恋死してしまった」という錯覚に基づく罪悪感です。罪悪感が芽生えた、ということは即ちもはや過去形であり、もうあの悪事がバレる事はなかろう、いやもはやバレようとバレまいともはや死人に口なしだぜ、というほど割り切れたものであるかは疑問です。むしろその方が筋道だっていますしリクツでいえばそりゃそうですが、先生が(というか人が一般的に)そう割り切って理屈で考え、一瞬で不安を解消するということの方が不可能だと思います。なのでこれはこれで一見は矛盾しますが、この不安と罪悪感とは一時的とはいえ併存していた、と考えてもいいのではないかと思います。
 そしてもともと依存する性質だった(叔父への依存であり、ねじけた依存であり、そしてKへの依存へと繋がる)先生はKの死、そして御嬢さんとの結婚によっていやでも独立せざるを得なくなります。


 でもそれはそうですが、そう簡単に独立などできるものだったろうか。「三本目の足」的な感じで叔父にすがっていた、それを叔父憎しという形で独立に見せかけた依存と執着をし一体化をしていたほど醜い、そして弱い存在だった先生です。さらにはKが身内と戦っていたことにどこかで自分の復讐心を満足させられていた先生でもあります。気づけばそうして「三本目の足」はKの存在によって立脚していたと言っても過言ではない。
 ところがKは死にます。なんだかんだと言いつつもそのKの強さを頼みとしていた先生にとって、Kがいなくなることはとてつもない苦痛だったのは間違いありません。その苦痛の度合というのは先生が依存しているがためにダメージのより具体的になり、さらに増すようなものではあっても、また別に誰かに依存すればいいかというように割り切れるものではありません。というより先生はどこまでその依存心について自覚的だったかというと怪しいところがあります。


 五十一では「私の幸福には黒い影が随いていました」と言っていますが、恐らくその正体というのは大体こうした要素にまとめられるのではないかと思います。さらには「叔父との一体化」もあります。気づいてみれば、先生はあれだけ嫌っていた叔父そのものではないかという意識、これがとどめを刺したと言えるでしょう。または言い方を変えると、様々な要素があったわけですが、それらが合わさって最終的に結実したのが叔父そのものだったと。一生懸命生きて来たのに気づいてみれば、あれだけ嫌っていた叔父そのものになっているという痛烈な皮肉です。一番離れたいと思った姿に、気づいてみればなっていた。


 罪悪感については、Kの死が失恋死ではないと思っていることからもわかるように克服されていると見ることができるでしょう。問題が把握される程度のものになっており、それについて自覚的であるということは非常に重要です。複雑であり、よくわからないことも多々あるが、少なくともKは失恋死ではないという手ごたえはある。したがって、そうした複合的なものからKの死の罪悪感は感じなくてもいいということは引かれていると考えられます。


 ・そうした複数の要素が一気にやって来た時に、キャパシティをオーバーしたってのはあるのかなと思いますし、考えられてもいいように思います。人はその処理能力に限界はあるわけで、先生は明らかにそれを越えてますし、Kの死の前後は複数の要素によって圧倒的にやられているなという感じですね。そのダメージであり余波ってものを引きずり続けているのがこの話なんじゃないかなと。少なくともそう見るだけの余地はあるように思います。
 叔父との一体化とか強い依存心があること、独立していかないといけないこと等もあります。まさか奥さんに依存するわけにはいかないし、そういう対象ではないわけです。依存されるにしても。だから酒に溺れる。でもこれは退廃的という意味ではなくて、先生にとっては男らしさの表現であり、豪気さであり、それはつまり一種の強さへの志向であるわけです。依存から独立への流れですし、その流れで酒の次は勉強へと進んだことからしても、その勉強もやはり頼れる自分であり、強さへの志向であると考えられるでしょう。でもそれをそうだと先生自身は認識できてない。自分自身がなぜそうするのかについて明確な答えを持てぬまま試行錯誤しつつ突き進んでいます。


 そうした諸々の事情が重なった末に、オーバーキャパシティで自殺したくなった、生きているのが辛くなった、ということを「殉死」の裏面に隠していた。それを先生の死から見て取れるように思います。






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