「こころ」/夏目漱石についての読書感想文その22(叔父に執着していた先生の醜さ)






 これはもう本当に感想だけになりそうですが、「執着」ということがこの話の根に繋がるところがあるように思います。先生はものすごく執着しているし、こだわりがある。過去のことであり、叔父との関係のことが常に先生の念頭にあるんですが、その執着という流れは物事の経緯をすっ飛ばすだけの力があるなと思いますし、ある意味物事の流れであり経緯というのと同列に並んでいる、いやもしかしたらそれ以上かもしれない、執着していることさえあればもはや経緯なんてことはどうでもいいものかもしれない。
 それだけの強さがあるのが執着だなと思います。


 先生はこうして過去に執着しているわけですが、でもこの執着っていわば先生を守っているところもあるなと感じます。つまりはその過去によってあくまでも悪いのは叔父だ、自分を騙したのは、そして財産を掠め取っていったのは叔父だという言い分が成り立つわけです。叔父は悪い、悪いのは叔父だと。恐らくどのように言っても、切り取っても悪いのは叔父である、ということは変わらないでしょう。でもその「明らかに悪いのは叔父である」という一事は、先生もちらっと言ってましたが、自分をそうではないことであり、被害者であり、それなりの言い分を持つと。そういう風に見ていくことが可能なわけです。つまりは何かといえば、圧倒的に有無を言わせず悪い、ということはその反面でオレはそうではないと言えるし、被害者だと言える。


 あいつが悪いと言えるということはオレは被害者だと言えるということと同義である。そしてそのことによるプラスってのは確かにあるわけです。あいつが明らかに悪いことして明らかにマイナスに落ち込んでくれているからこそ、それによってこっちはちょっとだけ浮き上がる。執着というのは、つまりはこのことによるうまみというものに対して執着するということだと言えるわけです。
 そうした一線が「Kによって美事に破壊された」のだと、これは重要でしょう。


 言ってみれば叔父の悪事はその実先生を支えていたわけです。そこに執着していたのは先生だった。Kはそれを破壊した、ということはこれは言わば独立です。支えなく、一人で立つことを意味した。一人で強く生きていこうということを意味していました。
 これについては二十四にそれとなく指摘されている箇所があります。
 「医者の説明を聞くと、人間の胃袋ほど横着なものはないそうです。粥ばかり食っていると、それ以上の堅いものを消化す力が何時の間にかなくなってしまうのだそうです。だから何でも食う稽古をして置けと医者はいうのです」
 これはKにそれを教えるくだりで出てきますが、こういう概念をこういう形で漠然と把握している先生は、恐らくそういうことをしていない自分の姿についてある程度自覚的であったろうと考えられます。「叔父は悪い」、あいつは悪いということにあぐらをかいてそれ以上の努力をしないで済む、それというのが自分の心身を軟弱にさせている節があるなと。


 「美事に破壊した」Kというのは、ですから叔父と自分とを一体化させたという意味で捉えていましたが、こちらの意味に取ると叔父の悪事に執着している先生という形で表されると思いますし、より具体的に言えば叔父に寄生している先生、叔父の悪事からうまみを掠め取っている先生というものが見いだされるのではないかと思います。叔父は確かに悪いわけですけど、これによって「叔父は悪い」という言い分を手に入れた先生は、いわば三本足となり、叔父の足を借りてラクに歩いて生きていけるのだと。
 実際にはそうでなくても生きていけるわけですけど、というより本当に憎く怒っているのであれば当然そうすべきなのですが、でも先生はその生き方を選びたくて自分で選び取っているわけです。なんといっても「叔父は悪い」と言っていればそれなりに生きていけるわけですから。


 そしてKによって暴かれたのはまさにそれだったと言えるのではないかと思います。あいつが悪いといいながら実はそれに執着し、そのマイナスを指摘してはプラスを掠め取る。そのうまみがいかに美味しいものかを良く知っている。独立どころかむしろそれに寄生すらしている。暴いてみれば実は叔父との一体化すら果たしている。だから先生の叔父に対する「嫌悪感」というものでさえ実は全くの別物であって。そういう先生の醜さというものを暴き出した、この「こころ」にはそういうものがあると思っていいのではないかと思います。







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