「こころ」/夏目漱石についての読書感想文その4(自殺という箱の、表面と中身の問題)






 Kの自殺に大した意味がない……ということは重要だと思う。これは我々の盲点を衝いており、我々は「あの優秀で前途有望なKが自殺をした、となるとそこにとんでもなく重大な動機があるはずだ、じゃあその秘密を解明しなくては」となるようにできている生き物だと思う。ここでは自殺と動機とがセットになっている。つまり「自殺」という箱が我々の前に示されれば、当然その箱の中身を開けてみなくてはならず、開けてみた結果として当然中には超重大な「中身」があるはずだという思い込みがある。そうなると、自殺と動機、箱と中身とはセットになっているという前提があるわけだ。
 ところが実際にはそんなことはない。ここにある錯覚というものを巧みにこの「こころ」は暴き出している。我々は箱を見るととりあえずは開けてみないと気が済まない生き物だし、その期待に見合っただけの「意味」を発見しなくては気が済まない生き物なのだ。しかしそこには中身がない、ということはこれは一体何を意味するものか。


 ・ロシア文学で……あのなんとかという自殺した者の話を思い出す。
 我々人間存在は生死という運命によって支配されている。その支配から抜け出さなくてはならぬ、そう考えたその人は銃で自らを撃ち抜いて死んだ。しかしこれが全然大した話にならなかった。運命に対する挑戦であり、人間に与えられた運命の克服……という名目でやったことは単なる自殺だったと。いかにも偉大なことをしでかしたようでありながら、その実やってることは自殺と変わらず、しかも自殺なら自殺でそれなりの意味がありそうなものだが、この場合にはそうした意味性を何一つ見つけることができない。最初から人の運命を超越するとか言っているわけだから、それ以上の意味をもはや見つけようがない。つまりは無意味さの極致という形の自殺をしたと。その結果、自殺者の狙いとは違って偉大さの極致どころか無意味さの極致を体現してしまった。あの話なんだったかなあ。


 ・その話というのはこの「こころ」の下地として描かれているテーマでもあるのではないかなと。Kの死というのは自殺とそれにあるべき、そして当然期待されるべき意味性から解放されている。したがって、あの秀才が突然の死を選んだ、これには何か意味があって然るべきだし、期待されて当然という展開でも全く意味らしき意味は発掘されない。しかしそれでは納得できないからこそ、とりあえずそれらしい意味は付与されるのだが……そうした中で先生はその意味性の発掘に成功してしまっている……つまりはこれは失恋による自殺なのだと。そうした事情があって自責の念と、そして友を失ったという喪失感が先生を襲う……いや先生は襲われて然るべきだ……先生にはそうした錯覚があるというのが重要なところだろう。少なくとも先生の側にはそれを「発掘」するだけの動機が、思い当たる節があるのだから。


 ・それにしても、Kは確かに優秀だったかもしれないし前途有望だったかもしれない。成績優秀で、この先生も及ばないというのだから本当に優秀だったのだろう。しかしこの「優秀」とは一体何物なのか。先の話でもあるが、「運命の超克」といって自殺したそのロシアのなんとかにも通じることであるが、あまりにも秀でた優秀さというのはその優秀さのあまりに無意味さをなんとも思わないような破滅を迎えることがある……つまりは平凡な次元における意味性をはるかに超越しているのかもしれないし、その先に高邁なる野望を有しているのかもしれない、人による理解を求める段階をはるかに越えているのかもしれないが、その結果として一種の無意味さに没入してしまうという結果は痛烈な皮肉にも思えてくる。普通なら耐えられないだろうその無意味さ、普通の人なら躊躇するだろうその無意味さの前に臆することなく、突っ切っていく。仮に人に平凡だと言われようともとりあえずは形として残すということ、そして形としてわかるがために人に謗られるような形というのは愚かしく思えもするだろうが、しかしそれにはそれで妥当性もそれなりに備えているような気がする。人に共通して理解されるだけの意味のレベルというのはそれはそれで貴重なものなのだから。


 ・まあこういう感じで、私の場合「クレーヴの奥方」を彷彿とさせるような面もあったりしたのだが、それが本当かどうかはともかくとして、恐らくは各国の様々な文学を下地にしてかつ和風テイストにまとめあげましたよ、というのがこの「こころ」なのだろうと思う。
 多分。
 しかしそうして「日本にもこんな文学があるんだぞ!」という形で祭り上げられはしただろうが、果たしてそうして陳列され珍しいものとして崇め奉られるのをどこまで喜んでいたかは微妙ではないかと思える……つまりは最初から「素晴らしいもの」というような見られ方を果たしてどこまで望んだろうか、そういう見方に耐え得るようなものだろうかと思うのだ。恐らくそういう見方をされるようであれば、そもそもこの小説は大分色褪せてしまう。恐らくこの話の中身、エッセンス、そうしたものの意味など全くの無意味であり、この小説は「日本文学の鑑」とでもなってそれっぽく収まっていてくれればいいという程度のものに収まるだろう。そしてそうであれば生涯この小説に触れることがないことなど大した意味はなく、そうであろうとなかろうとどうでもいいということにもなる。
 しかしこの話はそれを望んでいたようには思えない。むしろもっと引き合いに出され、分解され散々こきおろされるようなものを望んでいたし、ある意味ではそれに耐え得るようになっている、そういう作りをしているのがこの「こころ」ではないかと思える。というよりそもそもそういう扱われ方をしなくては夏目漱石自身が納得できないのではないかとも思える。その意味では、確かにこれは「薬」としての面を持っている。いつもは薬箱にでも収まっていて別になんてことはないのだが、いざ困った時に必要とされた時に初めて引っぱりだされ、そして確かに効力を持っている……そうした実用に耐えるだけの力を確かに備えているし、そういう面があるからこそ夏目漱石は後世に宛てたものだとも考えられる。
 まあ、それが薬であれ、薬効どころか魔力を備えているような代物だったにしても、それが必要のない人生には無用の長物でしかない……それは間違いない。







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