「釈迦の説く「随縁(ずいえん)」と儒教の説く「素位(そい)」、この四字は海を渡る際の浮袋に等しい。
世は広く果てしない、そこで一つの事を思い完全を目指すのであれば様々な情念が沸き起こる。
境遇に従って安らかにしていれば、どのような境遇に入っても安楽を得ることができるだろう」
・「随縁」と「素位」ですが。
「随縁」は因縁に従うことであり、そもそもいろいろな物事がそのように配置されているということは因縁あってのことだ、というようなことを表します。
「素位」は自分の身を守ることであり、他の事に気を取られないこと。他のことに目を奪われたりすることなく、自分のやるべきことを堅持する。立場をしっかりと保持するということだと。
解説によると、このような仏教と儒教の完全なる融合をもって菜根譚は終わるのだということですが。
・まあ要するに世の中のいろいろなことはきちんと前世からのとかで様々な因縁があって成り立っているんだよと。まあきちんと意味があるんだからそっちには目をくれることなく自分のやるべきことをきちんとやっていればうまく世渡りできるでしょうというわけです。恐らく、「意味は何だろう」とか「なぜなんだろう」と人は考えてしまいがちだと思うんですが、そうではならないと。それにはちゃんとそれなりの意味がある、だから無視していればいいんだと。自分のやるべきことを迷わずやれ、やり続けろと言いたいものだと言えるでしょう。
その意味ではこれは解決を目指したものです。現世を生きながら、あれはなぜなんだろうこれの意味はなんだろうとつい目移りしては考えてしまう。それが人だといえます。でもそんなことにいちいち目をやっては答えを探している、なんてやっていては、そもそもその意味探しで人生終わってしまいかねない。しかもじゃあ時間と手間暇かけて探したからって、その発見された「意味」が輝かしいものであるかどうか。そう保証されていればともかく、まあそんなことはまずない。時間と手間暇かけた分だけ輝かしいなんてことはあり得ない……まあ人の側としては、時間と手間暇かけただけそれに見合うものであって欲しいと思う気持ちがあるわけですが。でも、残念ながらそれに見合うだけのものである法保証はない、というより大概は見合わないってことです。
・つまりは何かと言えば、要約すると「無視しろ」ってことでしょうね。こういうと少し誤解が起こるわけですが。
いろいろ起きる、であの意味はなんだろう、この意味はなんだろうと人は考えるし、意味を求める生物であると。そうして立ち止まる。考え込む。時間が過ぎるし、本来できたはずのこともできないというようなことが起きるわけです。しかもその上、「こうして立ち止まったことには意味があったのだ」と考えたがる。どうせそう思うのであれば別にやれることをやっていた方が良かった、でそれに意味を見出す方が余程建設的だし健康的なはずです。
それをでも「無視しろ」と言っても恐らく人は無視できない。むしろムカッときてさらに執着するようになるはずです。それでは逆効果だといえますし、狙いとは違ってくるわけです。
そうであるならば、ここに解釈を入れると。
「前世からの因縁です」とか、「今は意味がわからなくても、いずれわかります」と言う。こうして事態を軽めにスルーする。そうしていって本当に重要なことであればスルーしながら考え続ければいいし、そもそもそんなに重要でなければ寝て忘れるくらいでちょうどいいわけです。
「急がば回れ」と言いますが。
急いでストレートにいこうがいくまいが、その無意味さに人は耐えられないんじゃないでしょうか。しかもそうしたがる生き物であるからなおのことたちが悪い。
でも「因縁」というのは、その言葉はその「急がば回れ」を実現化してくれるわけです。そうして急いでいながらもぐる-っと回っているうちに大切なものは残るし、いらないものは忘れさせると。
人はつい直接的、というより直情的に行きたがるものですが、間接的に、少し余裕をもっていくと。こういう過程が重要だというわけですね。
・とまあ、本来は反論しようと思ってましたがあまりにもしっくりくるのでおおー頭ええなあと思いました(笑)
人類の叡智であり真の知恵だと言えるものってこういうものかもしれませんね。概念的なことであり具体的なことは一切ないといえますが、しかしながらそれでいて様々なことに決着をつけることができている。
非常に素晴らしい段だと思いました。
赤壁の戦いも周瑜がぐるーっと回っていろいろな過程を踏んでいるうちに勝ちを掴みました(曹操は負けたわけですが)。
五丈原も決戦……というようなものではなく、司馬懿が戦いを避けて持久戦をしているうちに諸葛亮の寿命は尽き、それによって決着がつきました。
こういうゆったりとした形をもっと人は求めていいのかもしれません。
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