「茶は精製したいい品を求めるわけではないが、茶壷の茶は切れることがない。
酒は最高級品を求めるわけではないが、その甕(かめ)も同様に切らすことはない。
琴には弦がなくても常に準備は整っているし、短笛に穴はなくてもいつでも思うままに吹くことができる。
こうであれば、たとえいにしえの羲皇(ぎこう)には及ばなくても、かの阮籍(げんせき)嵆康(けいこう)には匹敵するものだといえるだろう」
・いろいろと分からんのが出てきてますが。
羲皇は、伏羲(ふくぎ)という名であると。
で、夏・殷・周(か・いん・しゅう)……と歴史が進んでいくわけですが、その夏よりもさらに古い三皇五帝のうちの一人であるということだそうです。なんでも泥をこねて人を作ったんだと。なんか日本の神話とかにもありそうですね(笑)というか、中国のその古代の神話を伝え聞いていやいやうちにもあるよ? といかにも言いたげな感じで日本の神話ができていった感が出ています。
・阮籍(げんせき)嵆康(けいこう)は三国時代の末期の「竹林の七賢」の中のメンバーですね。これも一応世界史で出る範囲の話ですね。
「世俗を避けて竹林にこもった」と。でそこで「清談」というのをしていた。
当時どんな手を使っても出世するために敵とか政敵を追い落とすことが当然だったわけですが、でもそういう卑しいものに背を向けて生きるということですね。その意味で憧れの対象だったということです。禰衡(でいこう)とか孔融(こうゆう)とかもこっち系でしょうね。曹操に逆らって処刑されたり追放されたりしていますから。
・解説によると、まあ世俗を求めていくら聖性を求めてもかの伏羲にはなれないだろう、でもまあ竹林の七賢くらいは目指そうよ、目指すことくらいはしようよといいたいんだということのようです。
茶も酒も最高級品があるというわけではないけど、一応切らさないようにはしている。
琴だって弦は張ってない(これそもそもダメじゃないか? と思うのですが)けど、準備は万端である。
笛だって穴は開いてない(これ吹けなくないか? と思います)けど、いつでも吹けると。
これ、どう考えても最後の二つは用をなしていないということにしか思えない(笑)
・恐らくここで言いたいことは、目指す境地があるとして、現に最高のものがあってそれを使いこなす=その先で到達する、というようなものではないってことです。そういう到達の仕方を目指していない。
仮に琴に弦はなくても、笛に穴はなかったとしても、その先にこころざしを抱いている、ということが重要だと。
え? それはダメじゃない? って話ではあるんですが。
茶も酒も最高級を目指せばキリがない。確かに最低級の粗悪なものかもしれないが、それでも嗜む。
最高級の先ではかの伝説の伏羲が待つのでしょうが、でも最低級でもそれを諦めない先では阮籍や嵆康の境地にくらいには到達できるだろうと。
そんなことでいいのか?? という話ではあるのですが、でもこれあながち間違っているとも言えないような気がします。
・前漢に陳平(ちんぺい)という男がいました。
項羽に仕えて後に劉邦側についた男です。非常に頭が切れることで有名で、しかし頭が切れすぎるがゆえに人々からあまりいい目で見られていなかったことでも有名です。後世に陳平の子孫が途絶えた時に、「まああの陳平の子孫だからなあ……(途絶えても仕方ないか)」というような目で見られたと。恨みを持たれていたというと言いすぎかもしれませんが、そういう雰囲気は常に付きまとっていたように思います。
この陳平ですが貧しい時に、家に馬車の車輪を置くということをしたことでも知られています。
これを見たとある男が、
「あの男には大志がある。いずれは富貴の身になろうというこころざしを抱いた男だ」と評価したことがあります。これによって結婚が決まり、まとまった金を手にしたということですが。
重要なのは、そうして見える解釈がイコール陳平の本音であったかどうかは疑わしいものですが(というか明らかにそうではないと思いますが)、しかしそんな行為が意外と外に対してはきちんと効果があったということです。それを置いておいたとしても多くの人は「??」で終わると思いますが、しかし見る人は見るし、見るどころかそこから意味を汲み取る。さらにはそこに好意的な、あるいは否定的な意味がついて回ることになる。その内心がどうであれ、それを見ることは意味であり解釈とは全くの無縁ではないわけです。
ものがあり、行為がある。そこに解釈が入り意味がくっついてくる。「意図」というのはある程度その効果を見越してなされるものでしょうし、それが当てずっぽうであれば何も起こらないといえます。
ところが陳平はきちんとある程度その効果を見越すことができた。このことというのは意外とバカにならないということではないかと思えます。
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