菜根譚135、内と外(酒を食らった張飛と、賢い公孫瓚の話)






 「波浪が天にまで届くかという時に、舟の中はといえばその恐ろしさを知らず、舟の外から見ている者は肝を冷やしている。
 酔っ払いが怒鳴り散らしている時に、席では気にかけていないが、その外にいる者は舌打ちしている。
 こういうことであるから君子たる者は、身はその事の内にありといえども、心はその事態の外になくてはならないのである」


 ・非常にわかりやすい文章ですね(笑)
 事態の内にいる者は意外とそうでもないけど、外から見たらヒヤヒヤすると。そういう内と外について明確にわかりやすく説明しているなと思います。
 内にいると迷惑さ加減を忘れてしまうんですが、かといって外にだけいるのがいいかといえばそうでもなく、今度は楽しさを忘れてしまう。だから外にいるのが絶対にいいかといえば案外そうでもないなと。外にいるときの客観的に見た時の視点は必要ですが、かといってそれを絶対視してしまうと内にいるときの楽しさなどというのを忘れてしまう、感情の存在をなおざりにしていてはそもそも生きる意味を見失うといえます。
 内なくしては主体的な体験であり見方を抜かしてしまうが、それに外が加わればより客観的な見方が加わる。これは鬼に金棒みたいなものであるといえるしょう。
 外なくしては累卵の危うさになりかねないのですが、そこに内なる見方が加わると厚みを増すと言えるでしょう。転ばぬ先の杖といえば少し消極的ですが、そういう危うさを未然に察知する上で安全性を確保するためのより重要な働きを獲得することができるといえる。二歩足を杖によって三本にする、さらには両手に杖を持って四歩足にするかのようなものでしょう。


 ・外をなくす、という意味では張飛の徐州での話がぴったりきそうです。
 劉備と関羽は張飛に徐州を任せて袁術との戦闘に出かけていきます。
 ここで酒は飲まないと約束した張飛でしたが、あっさりと約束を破って酒宴を開いてしまいます。そこへ諫めに来た部下が曹豹(そうひょう
)というのでしたが、張飛はこれを叩き出してしまいます。これを恨みに思った曹豹は、呂布に今なら徐州を乗っ取れますぞと誘いをかけ、その誘いに乗った呂布は徐州を乗っ取ります。
 内にいることは確かに楽しい。
 しかしだからといって外をなくしてはこのような事態に陥ると。


 ・では逆に内をなくすというのはどういうことか。
 公孫瓚という北方の雄がいました。彼はよく袁紹と戦いをしていましたが、良く戦っていたようです。
 ある時、逃げ遅れた兵士の一団がいました。兵士たちは仲間を救いに行こうとしましたが、公孫瓚は止めます。
 「彼らを救うためにそれ以上の兵士を失ったら意味がない」
 そうして仲間を見殺しにしましたが、兵士たちは城にこもって仲間が殺されるのをただみているだけでした。
 これを恨みに思った兵士たちが袁紹に裏切りをしたことで、公孫瓚勢力は滅ぶことになります。


 正しさを言えば、公孫瓚の言葉は全く正しい。
 100の兵士を救うために1000の兵士を失っては戦にならんじゃないかというのは上に立つ者の視点としては的確だといえます。
 しかし組織はそれだけで成り立っているのではない。
 仮に犠牲はあったにせよ、仲間は仲間です。仮にそういう命令があったにせよ、仲間は助けたいという気持ちがある。そういう気持ちを考えず自らの客観的な正しさのみを押し付けた公孫瓚のやり方には問題があったといえるでしょう。


 結果からいえば、公孫瓚は正しかった。
 しかしその正しさが公孫瓚を滅ぼしたということができます。
 公孫瓚を滅ぼしたのは、その客観的かつ圧倒的に正しい算盤の先ではじき出した結論です。
 こうであるからこそ指摘できることがあります。確かに公孫瓚は理に敏いといえる、知将だといえる。でも名将にはなり得なかったと。
 樊城での戦いで曹仁がやったように、仲間を救うためであるならば寡兵であっても敵中に突っ込む、そういう姿勢がない。つまり知将ではあっても名将だとはいえない。
 この公孫瓚の犯した過ちであり愚かさというのは、なかなか理解するのが難しいのが今日だといえるのかもしれません。




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