スカスカな文系と先の見えない理系






 文系理系って枠組みであり仕分けについてはたびたび考えてきたんだけど、これはあるなと思えるような内容、その一つってのはこの題名のような内容になると思う。
 文字通りスカスカな文系と先の見えない理系なのだ。
 これってのはそれぞれの特徴でありその短所をよく反映している。結論からいえば、こうした短所がある……というより一長一短あるわけなんだけど、その長所を生かしつつ短所を減らす。そうした素晴らしい制度がこの文系理系の仕分けであると思う。これというのは問題が出ないうちはよくできていた。人それぞれがその短い人生で、自分の向いたところ、適所であり長所を存分に活かすことができたのだろう。
 ところが現代になるにしたがってこれはうまく機能しなくなり、その短所が際立つようになってきたし、なってきている。



 ・文系の特徴ってのは順序だてて話すことができるところにある。
 まずこう、次にこう、そしてこうなり最終的にはこうなるということが順序だてて話せる。
 つまり先に枠組みとして1、2、3、4というような順番とそれぞれの内容とが頭の中に入っているし、この形式の強さということが文系の最大の特徴であり強みの一つだと思われる。
 ところがこれにはバグがある。下手に形式が強固であるがゆえに、2とか3とかをぬかしても話は成り立つのだ。内容スカスカというのはこれに当たる。具体性や現実味に乏しくても、話だけは通すことができる。形式だけのゾンビだと言っていい。このスカスカのゾンビ理論がまかり通る世界がある。
 これは「アキレスと亀」の話などでも有名だろう。現実にはアキレスは(というか誰でもできるのだが)亀よりも圧倒的に速い。すぐにでも追い抜ける。ところが「アキレスがこれだけ進むと亀はこれだけ進みます、またアキレスが進むと亀も進みます、したがってアキレスは亀を未来永劫追い抜くことはできません」というような現実感の伴わない話がそれっぽく通ってしまう。またこれが実際に出されてみるととんでもなく説得力、というか力があるのだ。これというのはあまりにも文系の理論であり形式が強固であり、そして現実にすら相当の影響を及ぼしかねないという危険な例だと言っていいだろう。
 意外とこれに対する反論というのは難しい。それこそ「あり得ない」といって席を立つとか、話を切り上げる。バカは相手にしない。そういう断固とした態度が有効ではあるが、つまり同じ土俵に上がらないということだしゾンビにまともに立ち向かっても分が悪いということでもある。
 まあ大まかに言えばこういう特徴が文系にはある。
 おいおい、理系だって順序だてて話すことくらいできるよ、といわれるかもしれないが、それというのは文系のこれとは性質を異にするものであることを後述する。


 ・先の見えない理系に関しては枚挙に暇がない。
 戦争に勝つため、効果的に戦争を進めるために核兵器を作ったのが二次大戦時の科学者たちである。
 ところがこれがあまりにも強すぎて、その強さのあまりに自分たちすら滅びかねないような状況を作り出したのが理系であるといっていい。
 「勝つため」という大義名分はありながらも、ところがいざ使ってみれば自分たちの生存基盤を脅かす。敵も味方も全滅である。こうなると「勝つ」という当初掲げた目標ですら実現が危うくなってしまう。なんとなく滑稽に見えるが、これが理系の最大の特徴であり宿命であると言っていい。火薬を発明し、銃を作ってみればそれで狙撃されかねない。それでも自らの運命上進まざるを得ないのが理系であるといっていい。


 「アウシュヴィッツを知らない日本の理系学生」がかつて話題になったことがあったけど、まあそれは仕方ない。高校で世界史取ってないし。取らなくても生きてこれたわけだから。でもこうも人は愚かでバカなことをやらかしてしまうんだね、ということを知るってこと、それに触れるってことは理系にとっても間違いなく役に立つ内容ではあると思う。


 「我々の理念のために!」と言われてサリンを製造した、ところがそれを現に日本内で使ってみれば、言われていたことと現実とは全く違った。あれ? これはおかしいぞ? と思っても後の祭り、というのがオウム真理教によるサリン事件だといっていい。
 「なぜ、一流大学に入ったほどの頭のいい連中がサリンを作ったりしたのか」と言われたりするが、なんのことはない、理系には基本的に文系的な意味合いにおける先が見えないのだ。見えないから製造できるし、使ってみて後悔する。そこで「あれ? これはおかしい。何かが違う」と初めて気づく。これが理系の宿命なのだ。
 でもみんながみんなそうではないじゃないか、と言われるだろう。確かにそうだ。そんなこと言われたらみんなサリンを作っているはずだろうと。でも、そうなってしまった人も確かにいる。そしてこのことこそ理系の最も危うい面であり、そして先の文系の話にも繋がるところだと言っていい。つまり、文系と理系では順序の意味が違うのだ。


 ・例えば説明書きがある。これというのは1、2、3、4……と追うに連れて内容を充実させる性質を持っている。対象となるモノというのは順番を追うことで完成に近づいていくのだ。これというのは先に挙げた文系ゾンビと表裏を為している。文系ゾンビのスカスカぶりがあるのだが、そのスカスカな要素を現実的に埋める者といえば何かといえば、理系の理論なのだ。つまり文系が垂直に進むとすれば理系はその2や3をさらに深堀する……横穴を掘り進めるような性質を持っているし、完全に近づけようとする性質を持っている。サリンで日本人を大量殺戮したいと思うようなヤツがいても、現にそれが作れなければ所詮は机上の空論でしかないわけだが、ところがそれを現実化してしまうのが理系である。あるいは亀に絶対に勝てないアキレスを現実のものとしてしまうのが(まあ開発するまでもなさそうな話ではあるが……)理系なのである。かくして、文系の示したプランがあり、それがいくら絵空事であり突拍子でないものであっても、それを実現化してしまうのが理系だといえる。それこそ核兵器を作って話の順序自体を無効化することも不可能ではないのだが……
 まあともかくここにある錯覚、つまり大体同じような「1、2、3、4……」という形式で示される二つは確かに性質としては同じものに見えるんだけど、つまりただ順序を追うだけのものでしかないでしょうがということになるわけなんだけど、文系のこれを理系のこれとを同一視するようなことをしてもらっちゃ間違いの元だということだ。理系は理系で「おめーらの言ってることは要するにこれだろ」となるし、文系としては(まあ一緒なんだけどオレらのものとは何かが違うんだよなあ)という違和感がある。じゃあその違和感というのはなにから成り立っているかといえば、同じ形式でありながらも実は全くの別物を指していることに起因しているわけだ。



 ・結局何が言いたいかといえば、文系も理系も二つで一つという性質があるよねということである。そもそもこんな制度は海外にはない。しかし日本の場合はこの分け方でも会議などを通して話を一致させていれば問題は基本的には起きなかったのだろう。会議とはそういう統合の場であったし、うまく統合されさえすれば、つまり文理の統合さえされていれば何ら問題は起きなかった。
 それがサリン事件をもたらすような場合であってさえ、恐らくはその会議の在り方というのは標準的であり、模範的な会議の形式を満たしていたに違いない。文系と理系とは会議で統合されていたのである。文系だけだと具体性に乏しい精神論に終始するし、理系だけだと先が見えなくなる。ところが二者が同じ場にいれば会議の内容は深まってきたというわけだ。


 理系の力を借りなければ、文系なんてゾンビ輩出機関でしかない。「あいつら何ひとつ実現化できねーじゃん。具体化する能力が皆無だよね」と言える。
 かといって文系の力を借りなくては、勝利のためにと核兵器を打って全滅するようなマネをしでかしかねない。「おいおい、あいつら勝つためにって核兵器打って全滅しちゃったよ」ってのが理系だと。
 こういう状態だからまあ仲良くやろうよという話です。もしくは、その性質を知って両方とも併せ持つという方向性が必要だと言えるかもしれない。それが仮にエセ理系やエセ文系を生み出すようなものであったとしても。









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