菜根譚132、形式と効果(楽毅と諸葛亮の狙いと効果について)






 「花を植え竹を植え、鶴と遊び魚を見るのも心に自得するところが必要である。
 漠然と光景を眺め、物の華やかさに囚われるようであれば儒家の言うところの受け売りでしかなく、釈迦の言うところの頑空というところでしかない。
 そこに何かおもしろいものがあるだろうか」


 ・頑空は外は頑固、中は空っぽという意味だそうです。
 受け売りにしろその頑空にしろ、これっていうのは非常に難しい問題だと思います。
 最近考えてますが、どれだけ充実した内容を話せるかということ。
 意味とか価値はある、でもおもしろみはないとか。
 内容は詳しく知っているけど、でも相手に伝わりにくいとか。
 おもしろみはあるけど、でも聞いててためにはならないとか。


 話す内容話される内容には必ず様々な内容がついて回りますが、でもそれが偏っておらずどれだけ充実しているかによって話者の内容というのはすべて明らかにされるといっても過言ではないと思います。それらが充実してさえいればいい、充実にさえ気を付けていればいいというものではないですが、かといってあまりに偏っているといろいろとまずいことが起きるものです。そして何よりその偏りに気づけない段階までくると大変にまずい。その意味で、どのような項目をもち、どのような方向性に気を付けるべきなのか。それっていうのは地味に重要なことではないかと。


 ・楽毅にしろ諸葛亮にしろ、生前に人の心を打つような内容の書簡を作っています。それはまさに後世に伝わるべき内容であり、人を感動させてきたものだといえるでしょう。一言で言えば「非の打ち所がない」ということになりますが、それは抑えるべき点をきちんとピックアップして押さえられている、ということが挙げられると思います。
 まずは先帝に対する忠義です。自らの内にある厚い忠義心を語り、その恩に報いたいという気持ちを述べる。
 そしてそれと重なる形で主張すべきことを主張する。それは趙に逃げたことへの弁明であり、あるいは北伐であるわけです。
 そのための障害として、今の皇帝なり王なりがいかに不十分であるかということ。つまりは毒を少し入れると。
 そしてこうした行動をする元には先帝への忠義があるということを再度説くと。


 ですからまあ「起承転結」風に考えてもいいかと思います。
 「忠義→主張→毒→忠義」的な感じで捉えても大体はいいのかなと。かなり大雑把ですが。そういう形式でありつつも、必要なことは過不足なく指摘する。言いたいことははっきりと主張する、かといって長すぎてグダグダになることもなく、収まるべきところに収めると。ですから全体としての効果もしっかり狙っているし、全体としてもかなり狙いどおりだったといえるのではないかと思います。



 ここで言いたいのは、まあ諸葛亮や楽毅がすごいとかそういうことではなく、そういうものがあるのならじゃあ意識して狙ってパクっていこうよというものですので(笑)


 出師の表に関してはいろいろリンクを貼っておきますので、興味を持った方は行ってみてはいかがでしょうか。





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