菜根譚126、心の区切り(項羽と漢の肩書主義)






 「人生の幸不幸の区切りは皆人の心が生み出すものである。
 釈迦も言っている。
 『利欲に自然と心が向かうならば、すなわち火の海である。
 貪欲に心が溺れるならば、苦しみの海となる。
 心が清浄であるならば火の海も池となり、苦しみから目覚めることができれば船も対岸に付くことができよう』と。
 気の持ちようが少し異なるだけで境界というのはこうも違ってくる。このことをよく考えてみるべきである」


 ・非常に面白く重要な段だと思います。
 よく地獄の風景で火の地獄だの寒い地獄や針の地獄などが描かれますが、それと同時に描かれるのが「心頭滅却すれば火もまた涼し」というヤツですね。そうして熱せられた鉄柱を渡っていく奇跡などが描かれることがあります。「えーそんなことはありえんだろ」といえば、まさにそれはその通りです。500度とか1000度に熱せられた鉄が熱くないわけがないわけです。それは心の問題ではなく熱くなっている鉄の問題なので、ここで奇跡の話を取りあげようとは思いません。というかそれをここで書けばオカルトか詐欺師みたいな話になってしまう(笑)


 そうではなくて、あれは比喩だと。
 人の心の問題っていうのがあって、人と人との関係とかで身をただれさせるような苦しみというのはあるものです。苦しんでも苦しんでも絶対に直ることのない地獄。それは生きながらにして既に地獄にいるに等しいような苦しみがあるわけです。でも、こういう問題に関して言えば、「心頭滅却」というのは全く正しい。それは心の問題であって、実際にはその人の頭の中にしかない問題だからです。ではその問題とどのように付き合っていけばいいのか。どう解決すればいいのか。釈迦のこの説法というのはそこらへんを指摘しています。
 「釈迦に説法」とか言いますが、それはお釈迦様に説法する愚を説いたものだといえるでしょうが、これとは逆で通じない相手に説法をするお釈迦様側の愚というのもあると思います。上に書いたような話、つまり「熱せられた鉄が冷たく感じるわけがねえ」という話はもうそれはその通りでしょう。その必要性のない相手に説法をしたところで大した意味もなければ罵倒されるのがオチです。


 ・韓信は項羽に仕えていましたが、その項羽の叔父である項梁(こうりょう)に献策する場面というのがあります。項羽にも献策はたびたびしているようですが、いくら献策してもふたりは聞き入れず、項梁は死に、項羽は韓信に寝返られ逆に追い詰められることになります。
 ではその献策が全くの的外れなものだったからだろうか、といえばそうではない。ただ韓信が一兵卒に過ぎなかったためです。意見を受け入れるにも我々はそれなりの地位や名誉を必要としています。ある意味では、人に受け入れさせるためには意見の正しさよりも肩書だといってもいいほどです。ネット社会になって匿名やペンネームでも素晴らしい意見というのがあることがわかるようになっていますが、そうではあってもこの肩書主義というのは当分変わることはないでしょう。我々が聞いているのは意見自体ではなく肩書である。こういう悲しい習性があります。
 実績は肩書を作るかもしれませんが、でもだからといってそれでも我々は人の意見を聞けるわけではない。つまりこの意味でも我々が聞いているのはやはり肩書だといえます。


 ・良くも悪くも我々は肩書を見ると。実績も見なければ意見も聞けない。人にこういう習性がある中で、漢が選んだのはこの名もない一兵卒だった韓信を大元帥に据えるという抜擢でした。この抜擢というのが意味するのは肩書に縛られないということだったといえると思います。まさか韓信に大元帥に相応しい、連戦連勝できるだけの実力があるということを見抜いている者はいなかったわけですから。


 項羽は肩書に縛られ、漢側は窮地に陥った末に肩書を見ることを捨てた。起死回生ということで見れば、これこそが起死回生ということができるのではないかという話です。







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