菜根譚120、許容と潔癖(始皇帝による焚書坑儒の話)






 「魚は水を得て動き回り、それでいて水の中にいることを忘れている。
 鳥は風に乗って飛び、そうでありながら風があることを忘れている。
 これを知れば人も俗世を越えて、天機を楽しむことができる」


 ・そんなんできるかいという感じですが(笑)
 まあ言いたいことはわからなくもないですね。改めて考えれば、魚も鳥もどうやってんだろうかというような不思議な生き方を自然にやっています。
 こうした流れの中に人もいると考えると、人が自然にやっていることもある視点から見れば非常に不可思議なものに見えることもあるかもしれません。例えば魚も鳥も一万円札や黄金を見かけても駆けつけるというようなことはありません。ところが人はお金に駆け付けます。経済活動なくては人の活動は何も残らないと言っていいほど人は経済的な生き物だと言えます。これなどは、魚や鳥が変わっているなあ、と見えるように、人も同じくらい変わっているという端的な例でしょう。


 ・秦の始皇帝の改革はものすごく苛烈なものでした。
 万里の長城を作り、貨幣を統一し、度量衡(どりょうこう、これは単純に重さや長さを統一したというよりは、税のためですね)も統一し、焚書坑儒も行う。たった15年で滅んだ秦ですが、始皇帝はいまだ歴史上誰もなしえなかったことを成し遂げたのが自分であるという自信がありました。なので自分のことを「朕(ちん)」ではなく「真人(しんじん)」と呼んでいたと。まあこんな具合に自分は特別だから何をやってみ許されるというところがありましたので、統一からわずか15年で滅ぶようなことになったわけです。


 特に焚書坑儒は変わっていると言えるでしょう。儒者は古の教えが正しいことを主張しましたので、これは秦による中華統一を成し遂げたという自負のある始皇帝とは相容れないものでした。そうなると間違っているのは儒者たちの方だということになりますし、正しいのはいにしえの教えではなくオレのやり方だということになる。こうなると古い学問は焼かなくてはならないことになりますし、間違っている儒者たちを生き埋めにしないといけないということになると。こうして古い学問の書は徹底的に焼かれ、儒者も次々と生き埋めになったというのが焚書坑儒です。
 まあ人間は変わった生き物ですが、自分の正しさのため、自分のやり方が絶対的に正しいことを主張するためには、相手を根こそぎ潰さなくては気が済まないというのはひどく変わっているなあと。めんどくさいとか余計なエネルギー使いたくないという方が余程自然に見えますが、それでは納得できない。相対的に「みんな違ってみんないい」という見方もありますが、それを自然と受け入れるように、その真逆な自分以外根こそぎ潰すという性質も兼ね備えているのが人だと思います。


 相手の許容もできれば潰すこともできる。やるとなれば徹底的に潰さなくては気が済まない。それも絶対的に正しいことを証明するためには、二位以下を徹底的に虐殺しなくては気が済まない。
 こういう生物が人でしょうが、まあ潔癖というか、その証明のためには手段を選ばない。そういうやり口も「みんな違ってみんないい」に含まれるだろうかなあ、と思ってみました。





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