「色欲は火の如く盛んであっても、病気になった時のことを考えると興が色褪せて冷えた灰のように感じられる。
名誉は飴のように甘いものではあるが、死地に陥った時のことを考えるとまるでろうそくを噛み締めるかのようである。
こうして人が常に死を憂い、病のことを考えるならば幻を消して道心を育むことができるのである」
・とは書いてありますが、病気になった時のこととか死地に陥った時のこととかをそう事細かに子細に渡るまで想像するだけの想像力に欠けている感がありますので、ちょっと難しいなと思うところはあります。言いたいことの方向性はわかりますが、それをそうと理解するのはなかなかに大変です。
曹操の人生というのはいろいろと示唆に富んでいるように思います。
あれだけ各地を転戦し中華の2/3を支配しながらも、死後30年経つと曹一族は皆殺しとなっている。じゃあそもそも曹操の人生はなんだったんだろうかと。
かと思えばその魏を乗っ取った司馬懿だって司馬昭、司馬炎ときたらもう西晋の中華統一と同時に衰退が見え始めます。そして八王の乱となり再び大乱となります。あれだけうまいとこどりをしたかのように見える司馬一族でさえ最後は殺し合いをした末に衰退し滅亡をしている。下手にその地位にならなければ一族で殺し合いなどしなくて済んだだろうものなのに、その結果だけ見ると曹一族よりも悲惨にも見えます。
「王になる」「王位に就く」ということはこうも輝かしく見えるのに、その末路というのがいかに悲惨なものなのか。当時の中華で一番いい地位のように見えながらも実際には皆殺しかあるいは殺し合いに至っている。司馬懿や司馬昭も切れ者として有名でしたが、恐らくここまでは読んではいなかったのではないかと思われます。この流れでみていくといわゆる「勝ち組」が本当にどこまで勝ち組であるのかが疑わしく思えてきますし、言われるほど負け組は負け組であったろうかとも思えてくるように思います。
・以前にこの流れで本当に司馬懿は勝ったのだろうか、諸葛亮は負けたのだろうかという話をかいたことがありますから、いや、実際には諸葛亮が勝ちだという感想について書くのはやめようと思います。
ただ間違いないのはそこらへんについての思想が諸葛亮にはすでにあったのではないかということです。諸葛亮は楽毅を敬愛していたということですが、楽毅の為した行いというのはほとんど何も残っていないと言っても過言ではありません。燕という小国でありながらも斉を打ち負かした。だとしてもそれは短期間のうちに覆され、結局は元通りとなったので結果だけみると変わりはない。まあ版図はともかく斉を大きく弱体化させることになったので、秦が結果的にその恩恵を受けたというのは以前に書いたところです。じゃあ楽毅の人生はなんだったのかと思えば、確かに何もしていないといえばしていないし、変わっていないといえば何も変わってはいません。
しかし楽毅は美名を残すことに成功しました。恵文王に書簡をしたためて、それが人々の心を打つものであったがために人々の記憶に残ることになったと。諸葛亮も出師の表を劉禅に書いていますので、明らかにこれは楽毅のリスペクトであるといえるでしょう。つまり蜀は負けることは知っていたし、まあ勝とうと思うには魏は強大すぎると。確かにこのままでは勝てない。では美名を残すことによって勝とうという意識は早い段階で諸葛亮は持っていたように思います。
そして諸葛亮の後継者としてこの思想を受け継いだのが姜維だったといえるでしょう。
今日になって姜維の評価が大きく揺れているのが非常に面白いところだと思います。憂国の士であり、小国の蜀で大国である魏に勝とうとする。いかにも義憤といった趣があり、日本人好みの立ち位置ではないかと思います。これこそは明らかに諸葛亮の後継者としての立ち位置を保持しているものと言えるでしょう。
しかし話はそう単純ではない。明らかにムリな相手である魏に対して度重なる北伐を繰り返し、しかも負け続きであって蜀の国力を大きく傾けたのがこの姜維だと最近評価が下がり続けています。確かにやったことで見れば諸葛亮と姜維はかなりかぶります。ほぼ同じだといっていいでしょう。ところが最近見る人の目が肥えて、諸葛亮と姜維とを峻別して見られるようになってきた。その結果「なんかおかしいぞ?」と疑惑の目で見られるようになった。
そりゃそうですよね。
諸葛亮と姜維とは別人だし、姜維は明らかに蜀を傾けようとして頑張っている感じがありますから。頑張るというにはあまりにも不自然なほど姜維は無謀な北伐を繰り返しています。
また、魏延という蜀の将軍がいたのですが、最近になってこの魏延が築城の名手であったのではないかという話が上がってきています。
それを解体したのが姜維だったというのもわかってきています。
そうなると、姜維は戦慣れした歴戦の勇者という像よりはあまり戦いのことはよくわからんけど頑張っていたというような印象にもなるでしょう。この印象は諸葛亮よりは馬謖に近いかのように思えます。
ということでいろいろ書いてきましたが、「じゃあ姜維とはいったい何だったのか?」というこの疑問が湧きあがるにつれて三国志の見方自体ががらっと変わっていくのが興味深いところだと思います。
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