「石火の光の中に(火打石の感じ)、どちらが長じておりどちらが劣っているかを競い合う。どれほどの時間の猶予があるというのか。
カタツムリがその角の上で雌雄を決しようとしている(つまらない争いの意)。なんと広い世界であることか」
・言いたいことはわかりやすいですね。
人生というわずかな時間の間に優劣を決めようとする。これがなんと愚かしいことかということと。
カタツムリが(原文ではカタツムリは=蝸牛、かぎゅうですが)その小さい頭上で左目と右目とで雌雄を決しようとしている。世界観が非常に狭い上に、どっちが勝とうと大した違いのないことなわけですよね。左目が右目に勝ったからと言って何になるのか。それどころか本来は左右の目は互いに長短を補ったり二つあるから立体感を保てたりできるわけですが、そういうことを忘れて自分の優越の証明のために相手を屈服させようとしたりするわけです。本来の意義としては相補的であるはずが、それを忘れて自分の優越感のために相手を潰さないと気が済まなくなる。自分の優越感のためなら、相手は潰されてもしょうがないとなる。こうして勝ったところでその後は悲惨です。人は二人いれば助け合えることを忘れて、相手を自分の優越感のために利用しようと企てる生き物なんですね。
・赤壁の戦いというのは歴史上大きな意義を持っていると思います。数で圧倒的に上回る曹操陣営を孫権側が破ったということ。数ではなく戦慣れや戦い方が明暗を分けるということ、その証明であること。この戦いがあったがためにその後の劉備・孫権の存続が可能になったということ。明らかに歴史的な分岐点であるわけですが、私としてはこの戦前に盛んであった張昭を筆頭とする降伏派が勝っていたら歴史はどうなっただろうかと思います。
三国志three kingdomsでは魯粛(ろしゅく)が孫権に言っています。
「私の家は豪族なのである程度厚遇もされるでしょうが、あなたはどんな目に遭うかはわかりませぬぞ」
事実、この戦前に劉表の後を継いだ劉琮(りゅうそう)は北荊州を治めていましたが、曹操への降伏を選び取ります。その後は厚遇……という名の軟禁状態が長く続いたということです。別に劉琮自身は勇猛でも智謀に優れるでもないし、人材コレクターである曹操からすれば降伏して手間が省けた以上の意味はなく、どうでも良かったんだろうなと。荊州北部を戦わずして手に入れられたのはそれは嬉しかったでしょうが。その配下の蔡瑁(さいぼう)は降伏を勧めた功績と、水軍に慣れていることとで手柄を認められています。まさに魯粛のいうことは現実的な話だったわけです。
そういう事情を知った以上、孫権は戦いを決意します。
周瑜を総司令官としてにらみ合いが始まりますが、にらみ合いながらも曹操と周瑜は化かし合いを続けます。
蒋幹(しょうかん)という周瑜の同門の者をスパイとして送り込みますが、蒋幹は逆に利用され、曹操側の水軍都督である蔡瑁を曹操に処刑させることに成功します。
しまった、と思った曹操でしたが、逆にこの状況を利用しさらに蔡瑁の従兄弟を周瑜のところへ送り込みます。
周瑜の方もまたスパイかと知ってはいましたが、これをさらに利用します。
黄蓋(こうがい)に偽りの降伏をさせて、火計で曹操を焼くことを考えます。
しかし黄蓋は孫堅の代からの宿将であり、いくらなんでも普通なら曹操は信用しません。それを曹操に信じてもらうために、この蔡瑁の従兄弟を利用しない手はない。
「黄蓋を百叩きし、恨みに思った黄蓋が蔡瑁の従兄弟に内容を打ち明け、もう周瑜にはついて行けないから降伏する」という筋書きで話を進めます。
こうしてスパイを送り、そのスパイを逆利用し、という関係が延々と進んでいった先で赤壁の戦いが起こります。そして結果は孫権側の大勝です。
・赤壁の戦いの70年後に呉は滅びます。
どうせ滅ぶならあの戦いに意味はあったのか。どうせ統一されるなら先に協力しといた方が良かったんじゃないのかとすら思えますが。しかし間違いないのは、曹操側というのは圧倒的な力を持った存在というだけの話ではない、孫権側からすれば侵略者であったわけです。その圧倒的な力を持った侵略者を前にしてどうするか。それを思えばこの話というのは協力しよう、さっさと降伏しようというだけの話ではない。
それこそ二次大戦でアメリカと死力を尽くして戦った日本の状況と酷似しているように思えます。それを後世から見れば、「早々とアメリカに降伏していたら、死傷者を減らすことを念頭に置いていたらもっと死傷者は抑えられたはずなのに」という風に見えもします。つまらないことをしてあがいているように見えるが、そういう話ではないと。
侵略者たちから故郷を守るためなら、人は命を掛ける。そういう普遍性があり、その普遍性の上に世界が成立し、その成立した世界の上では「さっさと降伏していれば……」という議論ができる。このことのつまらなさと同時にある気高さのようなものというのは人の生きる意味なのかもしれません。
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