菜根譚100、表面と本質(三顧の礼について)






 「人は字のある書物については読めるが、無字の書物は読むことが分からない。
 有弦の琴は弾けることを知りながらも、無弦の琴を弾くことは知らない。
 形の後を追って使いはするが、物の神をもって用いることがない。これで何をもって書や琴の真の趣に至ることができるだろうか」


 ・言いたいことはなんとなく理解できますが、もしこれを解説できれば誰も苦労しないって話ですね(笑)ついつい人は物の形に囚われる、それでどうして本質に迫ることができるかと。本質というのは無形であり、形ではなくその神、つまり精神とでもいうべきものに宿っている。それを追わなくてはならないんだと。
 ①物とその形は追いやすいが、だからこそ本質に至り難い
 ②その神であり精神を追わなくてはならない
 こうした内容がまとめられている段だと考えられます。


 ・劉備による「三顧の礼」というのはまさにこうした理解のされ方をされやすい話だと思います。あの君子である劉備が3回もまだ無名の諸葛亮のもとを訪れた。その丁寧な気遣いに感謝した諸葛亮が劉備のその思いに感激して劉備に出仕することを決意したと。恐らく辞書で「三顧の礼」を調べても大体はこのような内容で出てくるでしょう。限られた文字数で書くには非常にわかりやすくて都合がいいと考えられます。
 でもこれは本質的に誤りです。それに感激して、というのであれば即座に出てきそうなものですが、実際はそうではなかったわけですし、むしろ「私のような非才の者には過分なことです」と辞退しようとしていたわけですから。3回も来たことには感謝していますが、じゃあ3回も来たら感激して絶対に出なくてはならない、というわけではないと。形は本質的ではないし、3回も、というところがこの話の本質であると考えると理解がついそちらに外れてしまいやすくなる。


 このことに関しては以前にも書いた気がしますが、その当時各地には名士グループというものがあり、この諸葛亮もその襄陽(じょうよう)の名士グループに属していたと考えるのが妥当だと思われます。だから、諸葛亮に、というよりは当時「伏龍」と諸葛亮を呼び敬意をもって扱っていたそのグループに対して敬意を払ったということでもあると考えられます。
 「将を射んとする者はまず馬を射よ」といいますが、諸葛亮が欲しければまずはその名士グループに敬意を表せよということでもあります。そうして諸葛亮のその外堀を埋めるような作用があった。あなた方が大切に扱っている諸葛亮をいただきますが、決して粗略には扱いませんというような意味があった。本当に礼を尽くされているのは諸葛亮もですが、司馬徽(しばき)を筆頭とするそのグループであったと。


 この効果がどれほど大きかったかについては、その後の劉備陣営を見るとよくわかります。諸葛亮を筆頭に、馬良や馬謖、龐統(ほうとう)に楊儀(ようぎ)、蔣琬(しょうえん)などそれまで決して多いと言えなかった文官が続々と劉備に仕えています。人材が多いとは言えなかった劉備にとってこの効果というのは非常に大きかった。ただこれはこれで新しい問題を抱えてもいます。劉備陣営に荊州グループがあまりにも多く存在していたことがその他のグループを圧迫することにもつながったと言えます。特に、蜀の終盤の主役ともいえる姜維(きょうい)は涼州出身で、涼州出身だと言える武将が他にいなかったことが姜維の孤立化と独断専行を目寝いている節があります。これから何が言えるかといえば、劉備陣営にとってはこの何々グループがどれだけの人数いるかということが常に筆頭にくるべき問題となっていたと。荊州に対するに益州はどうなのか、荊州以外はどうなのかということが常に問題となっていた。その意味でこの問題というのは常に劉備陣営の核心だったし、常に核心を衝くだけの重大問題となっていくことになります。


 話を戻しますが、「三顧の礼」ということの意味とその影響は後々まで蜀漢について回っているわけですが。つまりはそれくらいインパクトの大きい出来事だったわけです。諸葛亮だけでなくその属する荊州グループにも敬意を払った、これによって劉備は諸葛亮だけでなく荊州グループと直接関係をもつことができるようになりましたし、その荊州グループによる支援というのを受けることも可能になった。荊州グループとしても劉備陣営に属している先輩がいるために、優秀であればそのツテによって抜擢される恩恵を受けられるようになったと。劉備陣営にとっても、特に武芸が得意な者は多くいたわけですが学問に関しては疎かった、そういう陣営にとって人が、特に学問をやっていた人が増えることはありがたかったわけですが、荊州グループにとっても活躍の場が与えられた、その道が開かれたということの意義は決して小さくはないと言えます。


 このように見ていくと、「三顧の礼」というものの意義というのは3回も訪れた劉備に対して諸葛亮が感激して仕えることを決意した、という表面的なものではなく、その後の劉備陣営の運命を決定づけるほど大きな一大転換期であり、一代イベントだったということができるのではないでしょうか。




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