菜根譚99、役割と自分らしさ(曹操と馬超について)






 「静かな夜に鐘の音を聞いては夢中の夢から醒め、澄んだほとりに映っている月影を見ては身の外にある身をそれとなく見る」


 ・もともと夢を見ているんだけど、その夢からふとした折に醒めることができ、あるいは自分の身の外にある本当の自分というものの姿、真実の姿を知るのだと。
 「本当の自分」なんていうと急に現代風になりますが、でも確かにここで言おうとしていることはそれですね。通常時の自分と本当の自分という者は違うと。500年前の人にもこういう感性があるということに驚きます。ただ、それというのは自分探しの果てに見出すようなものではなく、忙殺されている通常時から離れて、ある落ち着いた瞬間にふとその静けさの中で見出すようなものであると。つまり通常時の忙殺ということは、「忙」とは「心を亡くす」と書きますが、心を亡くしているんだと。ですが、ふとそれを取り戻す瞬間がある。それによって本当の自分に至るのであると。普段であり、通常時というのは社会によって要求される役割を演じてるに過ぎない、という感覚はあるのだろうなと思います。そしてそれから離れた時に、ふとああ、これが自分なのだと思うことがある。ではその役割をどこまで演じきれるか、うまく演じ切るかという問題になるのでしょうが。そして「あの人は(大体)こういう人だ」という理解のされ方をするようになる。それはそれで問題ないわけですが、ふとした時にそれでは物足りない、本当のオレはそうではないのだという気持ちになると。


 ・曹操、劉備、袁紹などをみていると果たすべき役割というのを薄々は理解しているという節が随所に見られます。こういう人間が今このタイミングで必要である、ということを恐らく大部分わかっていたし理解して行動していたように思います。適所適材ということを念頭に置いていたのでしょう。
 そういうところから抜け出た存在ってだれかいたかなと思うと、例えば馬超などが当てはまるかなと思います。馬超の父馬騰(ばとう)はかつて曹操暗殺計画に加担したことが露見し先手を打って殺害されます。
 それを知った馬超は怒りに燃え、兵士は少ないながらも西涼の兵を全軍向けて曹操を討とうとします。その勢いは盛んで、華北を統一し勢いに乗る曹操も西涼の騎兵の前に敗れるような有様です。この時、総大将でありながらも馬超は敵将に過ぎない許褚(きょちょ)と一騎打ちしたりしています。短慮とも見えるほどですが、そのくらい曹操に対する怒りはすさまじいものがあったといえるでしょうし、己の武勇に自信があったのでしょう。戦いをやっているというより好き勝手戦っていることが結果的にいい結果に繋がっているという感じです。最終的には離間の計に引っかかって馬超陣営は分裂し、曹操に敗退することになりますが、この時の馬超の好き勝手に戦う姿は見ていて清々しさをかんじさせます。


 まあ馬超が本当の自分とか自分らしくあろうなんて考えていたとも考えられませんが(笑)、曹操などもその果たすべき役割ということに関して非常に敏感だったと思いますし、昔の人も思ったよりも自由というほど自由ではなかったのではないかと思います。その中で後先考えることなく弔い合戦に集中できた馬超というのはもしかしてかなり稀有な存在だったのではないかと思ったのでここで触れた次第です。











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