「鶯が鳴き花が咲き、山が深く谷が濃いのはすべて幻である。
水が尽き石はやせ細り、崖は剥き出しとなった姿こそが天地の真の姿である」
・面白い表現だなと思いました。この世の真の姿は石と水くらいしかないと。栄養がたまたまあったり気温が適度だったりするから草木は生い茂ることができているわけですが、あれは偽物だと。たまたま栄養があるからああして咲き誇っていることもできるのですが、その生自体が偽物である。ある意味では不易流行の極致とは、こうした表面上で全く誤魔化されない姿なのかもしれません。
・その先に人を見れば、人が多いというのも一種のまやかしであると。それどころか人の存在そのものがまやかしの方に位置するものだとすら言えるかもしれない。まあそんなこと言ったって実際には人はいるわけですが、いると言ったって所詮大したことはないとこの節は言おうとしているものでしょう。それこそ前節の楽毅のように、小国燕でものすごくがんばって斉を負かしはしましたが、いなくなってみると斉は勢力を盛り返し、版図は元通りとなり、結果的には斉の勢力を大きく削ぎはしましたが、最終的には秦の中華統一に大きく貢献するような思わぬ形に繋がることとなりましたが。
人にやれることなんてのはまあそんなもんだよね、という達観あるいは諦観みたいなものがあると言えるでしょう。
・楽毅がやったことというのはそうして非常に消極的な姿で見受けられると思うのですが、もっと積極的に見出そうと思えば秦の内部をみていく必要があるでしょう。そうすると例えば商鞅(しょうおう)の法治主義改革や呂不韋(りょふい)による「奇貨居くべし」の事例、白起が各国を撃破する話などいろいろなことがこれでもかというくらい目白押しです。しかしそうしたことも見てくれはパッとしないが実は後から見ていくと実はすごかったということや、見てくれは派手だったけど効果としては地味だったことなどが散見されます。そうしていくと、本当にこれはすごいと言えるものってなにかあるのかと。一貫性のある秦の凄さというのは何になるのだろうなと考えるわけですが。
・ところで白起は秦出身のようですが、商鞅も呂不韋も出身は違うようです。他にも宰相を務めた范雎(はんしょ)の出身は魏というのは有名でしたし、張儀(ちょうぎ)も若いころに楚で叩きのめされたことがありましたから、どうも秦出身ではないようです。韓非子は韓の公子でしたし、鄭国渠(ていこくきょ)を作った技術者の鄭国も韓出身でした。こうしてみていくと、秦の本当の強みというのは外国出身の者であっても意見が良ければきちんと採用する、いいものは進んで取り入れるという新進気鋭の気風に行き着くのではないかと思います。これというのは他の国にはほとんど見られない姿勢で、韓や魏では我々は中華の中心で偉いんだというのがありましたし、楚では豪族がいばって王権が他国ほどなかったようです。
魏で働いた呉起が魏を追い出され、楚へ行き改革を起こして処刑され元通りとなったという例もあったりしました。かと思えば楽毅が燕へ行ったこともこうした流れの一部であると考えられるでしょう。本当は秦よりも先に中華の覇者となれたかもしれないという可能性はこうして何回か見られましたが、すべて消えていきました。それというのも外国人を排斥し、我々は偉大であり、偉大な我々の力だけで事を為すのだという自負のようなものがあったためだといえるでしょう。それが最終的に呉起を殺害し、楽毅を追い出す原動力となりました。
秦というのが根本的に他の国と違っていた、そしてそのために他国に先んじて中華の覇者となれたというのは、まさにこの一点に尽きると言っても過言ではないのではないでしょうか。我々は偉大だ、というような自負がほとんど見受けられず、いいものであれば積極的に取り入れる。新しいものを拒むことなく、よくないものであれば習慣となっていても改めることができる。こうしたところが強みとなり、中華統一の原動力となっていったように思われます。
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