カチュアを失った後のデニムの姿というのは痛ましいものがある。とても正気を保っていられないようであるし、そもそも正気を保つだけの動機を失ったかのようにすら思える。17歳前後にしてはしっかりしており大人びたものを感じさせるが、デニムのとてつもなく強い責任感などカチュアの死の前には大したものではなかったかのようである。
強い意志も、強い責任感もあったからといって一体何になるのか。未来はいくらでも変えられるかもしれないが過去は全く変えられないし。変えたいと思う過去を前にしては何であっても無力である。
どうあがいても過去は変えられない。
過去は変えることができない、しかし未来はいくらでも変えることができる。
未来はいくらでも変えることができる、しかし過去は変えることができない。
どちらが先にくるかでその意味合いは全く違うものになってしまう。そしてこれに一旦はまってしまうとここから抜け出すのはとてつもなく難しい。
・覇王ドルガルアもかつてはデニムとまったく同じことを感じたものだった。
愛する妻子を失い、生きる意義を失った。
すべてを手に入れたはずなのに何もかも失ってしまった。
この時王の実子であるカチュアを王のもとに差し出していれば、というのはプランシーの悔恨に見受けられる。ドルガルアは嘆き悲しみ、紙に祈り、祈りを叶えてくれない何の役にも立たない神に失望して悪魔の力を借りようと思いつく。王位など放り出して行方不明になるが、物語の中では「死後」という表記になっている。しかし具体的にいつ死んだのかについては明確に語られない。「死後」とはあるが、そもそも死んでいないのだから語りようがないのだ。
失意のうちにあるデニムが、失意を経験したドルガルアと戦う。
そりゃあラスボスなんだから戦わないわけにはいかないのだが、これが意味するものはデニムにとっては決して小さくないものがある。父プランシーを失い、姉も失ったデニムにとってその苦痛を分かり合える相手というのはそうはいない。それこそその痛みをそっくりそのまま分かち合える相手が皮肉にもドルガルアだといってもいいほどである。ところがそのドルガルアを征伐するという流れがある。
これが意味するのはデニムの孤独はさらに深まったということだと言っていいし、デニムの視点から言えばデニムにとって唯一といっていい理解し合える可能性のある相手を自分から断ち切ったということだと言ってもいいだろう。よりによって生きる意味を分かち合えるはずの相手と戦い成敗するとは。まああの状態のドルガルアに一体どこまで話が通じるものかは疑問ではあるわけだが。
デニムの孤独と孤立はこうして深まっていくことになる。
こうしてみていくと、ではこのタクティクスオウガという話のエンディングは一体どのような意味を持つのかということになる。
このバッドエンドも二種類あって、デニム暗殺エンドと暗殺されないエンドとに分かれる。
孤立し、頑張る意味をなくしたデニムにとって暗殺されることというのはもしかしたら救いなんじゃないかとすら思えるし、少なくとも暗殺されなかったにしろ、その後のデニムからは生気が抜けているのは間違いない。要は役に立てないし、いたとしてもだからどうなるというものでもない。民衆にとっても恐らくはとてつもなく迷惑な話だっただろう。
一応デニムが暗殺され排除されて、それによって話は振り出しに戻る。ヴァレリア島は再び混沌とした争いの中に戻されることになる。要は今までのデニムの戦いは何の役にも立たなかった、はっきりいえばムダだった、ということになる。これはドルガルアが息子を失って行方不明になった直後とそこまで違いのあるものでもないものと考えられる。ドルガルアが死に(正確には行方不明になり)島が混乱したように、デニムの死後も役者は変われど、再び同じようなことが繰り返されるに違いない。
一方、人々から支持があって暗殺されなかった場合はどうか。
大国であるローディスから大軍がこのヴァレリア島に派兵されてきて、その難局にデニム王は当たらなくてはならない。人々の支持は厚い、かといって別にカチュアを失ったことによって失った生気を取り戻せたわけでもない。あまり役に立てそうもないデニム王を抱えてヴァレリア島はこの難局を迎える。
ここからは推測だが、恐らく難局に当たろうが当たるまいがこのデニムにとっては全く関係ないのではないかと。戦乱によって父も失い、姉も失った。そしてその痛みを分かち合える相手もいない。それによってデニムがどういうことになるかといえば、ここまでドルガルアと境遇が被っている以上は、役に立たない祈りを叶えてもくれない神を呪って悪魔に魂を売り渡すのではないかと思われる。これによる王の「死」による王位の不在を迎えるだろうがその後というのもやはり役者が変わるだけで、結局はこの物語の最初とほとんど同じような状況を迎えるのではないかと思われるのである。
なぜラスボスはドルガルアなのか、ということについてこうして考えてきたわけだが、ラスボスがドルガルアである意味、そしてよりによってそのドルガルアを退治する意味というのは決して小さくはないように思われる。少なくともカチュアを失った後のデニムにとっては、その意味というのは実はものすごく大きいのではないか。そのドルガルアをよりによって成敗する、その成敗であり、同時に自らの生の意義であり、理解し合える人としてのドルガルアという可能性、それを断ち切るような意味合いとしてのラスボス戦なのではないか、ということを考察してみたものである。
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