菜根譚88、評論の不在(西門豹について)






 「この世にいるためには、世俗と同じくしてはならない。かといって世俗とあまりにもかけ離れてはならない。
 事業を始めるには人に厭われるようではならない。かといって喜ばせるばかりでもならない」


 ・これをなんというかといえば「中庸の精神」といえばいかにもすっきりするかのようですが、私はけっこうこれに反対です(笑)
 要するに程々なところを絶妙にこの中庸という言葉は埋めてくれるのですが、結局便利な言葉で終始している感がありますし、それはパズルの空いた隙間をどんなピースであれ埋めてくれるというだけのものでしかない。それは埋めてくれるだけのものでしかなく、解決しようとか現実に役に立てようとか、そういう事とは全く無縁です。例えば大学の課題とかで出たとして、この手のものを見かければ「中庸」と書いて空欄を埋めれば確かに点は取りやすいでしょうが、私なら即座に落第で決定ですね(笑)


 ・西門豹(せいもんひょう)という人がいました。魏の農業を振興させた人で有名ですね。この人は魏に赴任するにあたって目上の人からアドバイスをもらうくだりがあるのですが(どっかでやったんだけどどこだったかな。思い出したら貼ります)、このアドバイスに見事に背いたのがこの人です。黄河流域にある迷信や習俗を打破し、黄河から水を引いて農業を興したと。これだけ書けばいかにも単純ですが、この最もシンプルな事実に寄り添えるということがどれだけとんでもないことかを思います。


 例えば現代においても日本には無数の田畑がありますが、ほとんど荒廃しています。田に稲を植えて世話をしていれば収穫ができるわけですが、こうして収穫ができるという形を何もないところから産みだすということはとんでもないことだし、それを現代に生きる我々は結局習慣として受け継いでやっているだけでしかない。そうなると、産みだすことの苦労をほとんどわからない。だからメンドクサイとあっさり投げ出したりもできます。その結果が今の日本です。産みだすとんでもない苦労がわからないから、簡単に投げ出せる。そして投げ出すことは簡単ではありますが、再度興すということがいかにとんでもないエネルギーを必要とするか。それこそ溝や灌漑設備は整っていたとしても新しく田畑を作るくらいのとてつもないエネルギーを必要とします。
 この事というのは基本であって、別に稲でなくてもいいわけです。池を作れば魚が採れるし、果樹を植えれば果樹が収穫できる。要は土や水ということ、つまりはパズルをかき集めて組み合わせていき、いかに収穫するか、ということなわけですがこれが難しい。それこそ「それはパズルだね!」ということは容易なわけですが、言うだけなら別に「中庸」と言うことと変わらない。じゃあどのようにしてパズルを組み合わせていくプレイヤーとなるか。肝心なところはそこでしょう。


 ・最悪なのは、パズル評論家になることや中庸解説者となるということでしょう。いかにそれらが難しいものであるかを高らかに語るか。そういう人が現代はものすごく多いですが、それと反比例してパズル自体について語れる人が少なくなってしまった。その結果日本は荒廃している。解説者が多くなるとそれ自体は廃れる。偉そうに言うくらいなら、そもそも振興に向けてがんばれということです。
 行動する者が増えるということは喜ばしいことではありますが、それだけでは決して栄えることができない。その結果廃れたこの現状があると言うのが日本だと言えるでしょう。やりつつも、違う視点でやはり語ることは避けて通れない。私は語ること自体を否定するものではありません。新しい視点を手に入れ、かつプレイヤーもしていく。そうした姿勢が問われることは間違いない。そのうえでプレイヤーの視点を併せ持った解説者が出てくることが必要でしょう。つまりは評論家という者のあるべき姿は本来はそうではないのかと。それがいかにも引退したものが好き勝手言うということと「=」になっているというのが日本の不幸であって、本来の評論とはプレイヤーがより豊かに、より発展していくことを視野に入れなければならない。それが、引退した元選手の偉業をまるで汚すかのようになると手のひらを反すかのようになると言う評論があまりにも多すぎる。そうしたことを踏まえた先にある、本当にあるべき評論の姿を模索していくことが必要だし、それこそが日本に足りないものではないかという気がしています。


 本題から大きく外れてる気もしますが(笑)、まあ書きたいことは書いたなということで終わります(笑)




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