「人の過ちは許すべきである、しかし己の過ちは許してはならない。
己の困難や屈辱は耐え忍ぶべきだが、他人の困難や屈辱は見過ごしてはならない」
・要約すれば、「他人に優しく自分には厳しく」ということになりますが、これ一般的にもよく言われてますが言われているほど一般的になるべきものなのだろうかと。よく言われているほど簡単なことではないと思います。というのは、自分に甘い人は他人にも甘くなり(寛容になり)、自分に厳しい人は自ずと他人にも厳しくなるためです(つまり不寛容)。そうした一貫性をもって生きる方が余程たやすいし、楽でもあるし複雑さもなくて生きやすい。わざわざここに自分と己との間に一線を作って、自分と他人との間に全く違うルールをこしらえてそれぞれに適用しつつ生きるということは、そもそも人間には向いていないように思われます。この結果が何になるかといえば、その理想とは真逆に、自分には優しく、他人には厳しくというその理想とは真逆な結果をもたらすことに繋がる。
ですからまとめると
①自分に優しい
②自分に厳しい
③他人に優しい
④他人に厳しい
この四つになると思われます。
で、理想としては②-③であると言いたいのがこの菜根譚の立場ですね。
個人的にはこの①-③、もしくは②-④が余程ルールが簡単で一貫しており、人という生き物には向いているのではないかと思いますし、わざわざこれをごちゃごちゃにさせていく①-④、②-③というのは人が適用するルールとしては難しくはないかと。複雑さを持っていると言えますし、適用するには煩雑であると考えます。
②-③という理想を掲げてスタートするこの生き方ですが、それが堕していき①-④という最も行き着いてはいけないところに行きついてしまうことにもなる。わざわざ小難しいことをしようとしたばかりに、高すぎる理想を掲げたばかりに、結果としては最底辺まで落ちてしまうわけです。わざわざハードル上げて余計なストレスをしょい込んだばかりに最低な結果となる、それならばいっそ一貫した簡単なルールで生きた方が余程効率はいいと思いますし、ルールも単純で人間的だということができるように個人的には思います。
わたしなぞはこの理想を掲げて①-④に堕すような意志の弱い人間ですが、かといって②-③を貫徹できているような人間というのはそうそう見かけたことがない。そういうむずかしいことをしようと心がけるよりは、単純にして明快なルールを貫徹している人の方が外れなく、健康的に生きているように思います。というより、この一貫させるという単純なルールをできないのにどうしてその先で高次の理屈をできるものだろうか。そこにはよく言われているから、誰もできているだろうから簡単だろうという錯覚がある。とんでもない、できている人間などそうそういないというのが実態です。
じゃあその難しい②-③を達成できれば万々歳だろうか、というのを見ていきたいというのが以下です。
・たびたび例に出していますが、今回も繰り返し同じ例を出そうと思います。
①の例としては張飛、②の例としては関羽が合うかと思います(自分に優しく他人に厳しいのが張飛であり、とにかく自分に厳しいのが関羽だと)。どちらも劉備の義弟ですね。この三人は桃園の誓いをして義兄弟となったことで有名です。
・張飛は自分より目下の者には非常に厳しく、部下を平気で殴る蹴るの暴行を加えたことで有名です。殺しても根性がないだのそれに耐えるだけの体力がないだのと言った理屈をつけて正当化をします。その一方で自分より目上の者には腰が低い。目下の者には好き勝手な横暴をし、自分より目上の者にはへいこらする、というのは結局たてついて損をするのは自分ですから、自分への甘さがここにあると言えます。こうして自分に甘く他人に厳しいを貫いていきますが、ある時部下に恨みを持たれて寝首をかかれて、殺されます。もしも部下に少しでも優しさを持てていればこうはならなかったのではないでしょうか。まあ、張飛が高い理想を掲げてこう堕した結果だとも思えませんが、ともかくこの道の先は張飛のような結果となると思っていいと思います。
(・他人に優しい……言いようによっては張飛は目上に優しい、したがって他人に優しいという言い方も可能でしょうが、今回はその表現は避けました。結局のところ目上に優しいというのは自分への裁量権を他人が握っているからであって、握られているがために優しいとなるとこれは詰まるところ自分に優しいということに行き着くだろうからです)
これと真逆だったのが関羽でした。
(②-③か②-④かで迷うところですが、関羽は部下にやさしく信望があったということで②-③寄りかなとしています。ただし同僚や目上の人に対してはズケズケと物を言ったということなので②-④とみなせないこともないですが)
自分に厳しく他人に優しい関羽は、張飛とは真逆で部下へは手厚く思いやりがあり、自分と同等か目上の人物に対しては容赦なく立ち向かっていくような勇猛果敢な人物でした。それによって困るのは自分だというのは先に見た通りですが、関羽はまさにそれによって追い詰められていきます。
関羽は劉備の益州攻略戦に伴い、荊州を完全に任されます。北は曹操、東は孫権、呂蒙と対峙するという重要なポジションですが、我の強すぎる関羽はどちらとも問題を起こし、それによって孫権・曹操が共に攻め込んでくる事態となりますが、これはまさに関羽の身から出た錆だと言えます。
そして関羽は同僚である劉封・孟達、糜芳や傅士仁(びほう・ふしじん)に援軍を要請しますが、四人はこれをしぶります。援軍を出したところで曹操・孫権と同時に対峙できるものだろうか。ムダ死にするだけではないかとしか思えないのですが、勇猛果敢で自分に厳しい関羽にとってはつらい状況ほど望むところなのでそんなことは知ったこっちゃありません。援軍を要請しているところからして、戦う気満々であることは間違いない。さらにはその部下たちから信望が厚かったので、部下たちも戦う気満々であると。そして援軍をしぶったとなると、関羽のことだから劉備に平気で告げ口するに違いない。ズケズケというだろうことは間違いない。つまり援軍を送っても地獄、送らなくても地獄ということになり、その結果関羽は死に、劉備から責任を取らされることを恐れた孟達は曹操、曹丕へ降伏し、糜芳と傅士仁は呉の孫権に降伏する流れとなりました。
・「自分に厳しく他人に優しい」絵に描いたような理想的な人物がこの関羽だとすれば、その理想を体現するかのように見えるこの関羽が実際にはそれによって破滅していく様子というのが関羽の最期からは良く感じ取ることができます。もう少し自分に優しく、同僚や目上の人物にも厳しくない配慮のできる人間であったならば、もしかしたら曹操・孫権と同時に対峙する状況になっても同僚たちは手を貸そうとしたかもしれませんし、援軍を送ろうとなった可能性もあり得ただろうと思われます。
しかし関羽のところに行くのはイヤだということでみんなが逆らい、その結果孤立無援の状態に陥り、関羽は呉に捕まり、処刑されることとなります。
・関羽にしろ張飛にしろ、誰に対して厳しかったのかということが最終的な明暗を分けています。それはつまり、誰から恨みを買うのか、誰に対して感情のわだかまりを残しているのかであり、最終的に誰から助けてもらえなかったかであり、間接的であれ直接的であれ、誰の手によって殺害されたかということでもあります。関羽など見方によっては理想的ともいえるはずのものが、なぜこのように事態が推移していったのか。このことはもっと考慮されるべきことではないでしょうか。
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