菜根譚64、伝わり方(劉備の三顧の礼について)






 「人を害する気持ちは持つべきではなく、人を守ろうとする気持ちはないべきではない。これは考えることに疎い、ということに対する戒めである。
 人から欺かれようとも、人の欺きに対して逆らうことがないようにする。これは過ぎた推察に敗れることがないようにするためである。
 このように二つの言葉を併存させるようにしていけば、本質はより明らかになり、徳は厚みを増すのである」


 ・前半に関しては、考えることに疎いことに対する戒めであると。つまりうだうだと並んでいるように見えて内容は非常に単純なんですが、その単純さが小難しそうに並んでいると「お手上げ!」となることが多い、そうなると「もうダメだ!」となる、ということに対する戒めなのではないかと思います。
 「人を傷つけてはダメ、人は守らなくてはダメ」という基本的なものがあるのに対し、この小難し気な言い回しはとっつきにくさを感じさせる。本質は単純でも、言い回しによっては人の拒否反応を起こさせる。この戒めというのはつまり、本質は何か、本質は何を言おうとしているかということから目を逸らすな、ということを言おうとしているものだと言えるでしょう。


 ・中盤は「人は騙すこともある」ではあっても「人というものは騙すものだ」ということではないということでしょう。そのように思ってしまうと、確かに頭は鋭敏に働くようになりますし、人の思惑の深いところまで読み取ることが可能になると言えます。そうして確かに騙されなくなるし、騙されにくくなる。でもそれは別に最高の結果を目指してのものではないんだと。本当は人と人が出会うことによって最高の結果とかを目指すべきなのでしょうが、「騙されないぞ」という身構えがそのレベルを低い段階に貶めてしまう。求めるレベルが低くなってしまうことに繋がる。
 頭の良さ、推察する能力は確かに便利なものかもしれませんが、でもそれが最終的にひたすら低い結果を求めることとなっては本末転倒です。低いレベルを指向し、そのために引きこもることが最高の結果をもたらすというのでは。


 ・そしてこうした二語重ねる言い回しが大切なんだという解説が最後に続きます。
 例えて言えば、蘇秦の
 「鶏口となるとも牛後となるなかれ」というような言い回しがこれに近いのかなと。小さい集団の先頭ではあるべきだが、大きな集団の後ろにはつくなと蘇秦は言うわけですが。
 ここでは、こうした言葉の重ね方によって本当に言いたいこと、言うべきことのその本質はより具体的なものとなり、より明らかになって徳も、つまり現実にも期待できるその効果を増すことができる。より現実的で具体的なものとなる、ということがここでは言いたいのでしょう。


 決して本質的ではないかもしれませんが、これは言い方によって相手に対する伝わり方も違ってくるということを言ってはいないかと思います。
 「鶏口となれ」でもよくわかりませんし、「牛後となるな」でもよくわかりません。でも二語を重ねると全然違ってくると。人の心の攻略というものがあるとすればこういう形となるのではないかと思います。言葉が重ねられることによって、より言いたいことが本質的に伝わるようになると。
 伝え方があり、伝わり方があり、そして相手に伝わった結果はどのくらいになるのか。


 ・三顧の礼の時に、一度目は張飛が言います。
 「おいおい、兄貴がわざわざ行くこともないだろう。オレがその諸葛亮先生のところへちょいと行って首根っこ捕まえてきてやるよ」
 劉備はこれを聞いて怒ります。
 確かに連れてくるだけであるのなら、それでいいかもしれませんがそんなマネをされた諸葛亮が(というよりそんなマネをされた人が)果たしてどこまでそのされた相手に心服してくれるものだろうか。
 そして諸葛亮は留守でした。


 二度目には関羽が言います。
 「一回訪れただけでも度が過ぎておりましょうに二度目とは。そこまでされたことのない他の部下の心証が悪くなりましょう」
 しかし劉備はその言葉にも耳を貸さず、諸葛亮の庵を訪れます。 
 しかし諸葛亮はまたもや留守でした。


 三度目は三人で訪れますが、なんと諸葛亮は昼寝をしており劉備が待たされています。
 兄貴を待たすとはとんでもねえ野郎だと張飛は庵に火を付けようとしますが、さすがに関羽に止められます。
 そして起きるのを待って劉備が諸葛亮と語らうことになるのですが、三顧の礼のその時々で様々な「解答」というのはあるにはあります。張張飛が強引に引っ張ってくる、関羽の言葉を聞いていくのを止める、張飛が庵に火をつける……それらの選び取られなかった選択肢がなぜ選び取られなかったか。そしてなぜ劉備は三度も自ら庵に赴いて、礼を尽くそうとしたのか。


 単純に三顧の礼で諸葛亮を加えたとか、襄陽の名士グループの気持ちを考えたとか劉備の思惑としてはいろいろあるのでしょうが、その時々で選び取られなかった選択肢をもし選び取られていたらと考えると、三顧の礼に厚みが増すように思います。
 劉備が伝えたい思いというのは、こうしたその他の選択肢を省きに省いた末により洗練された形で諸葛亮に伝わったのだろうし、それを劉備はある程度計算に入れていた。こうした思いと表現、その結果という関係に見るべきものがあるのではないかということを思いました。








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