「逆境と困窮は、豪傑を鍛錬するための炉や錘(金属を溶かす入れ物と、鍛える入れ物)であると言える。
その鍛錬を受ければ、心身ともに鍛えられる。
その鍛錬をそこまで受けなければ、心身ともに損なう結果となる」
・困窮を訳では「困難」としてましたが、そのまま困窮としました。
鍛えるために入れたわけなのに、そのまま徹底的にやれば鉄として質を上げることができる。
ところがほどほどにテキトーにやれば、ただ痛めつけられるだけで終わってしまうと。そういうニュアンスがここにはありますね。
・呉下の阿蒙(ごかのあもう)の話を出したいと思います。
ある日、孫権が呂蒙と蒋欽の二人を呼び出します。
二人は将軍として優秀だけど、ちょっとは勉強にも精を出してみてはどうか、と勧めるわけですね。
ところが呂蒙は言います。すでに我々には幾多の武功があります。つまりもうれっきとした武将であるんだから、武将として忙しいのに、今更勉学などしても……と言うわけです。
これを聞いた孫権は怒ります。
主君であるわしですらも忙しい中勉強してるというのに何という言い草だと。とにかくつべこべ言わずにやってみろと。
で本を渡して二人を下がらせた(ここで渡したがどうかは知りませんが(笑))わけです。
・で魯粛が呂蒙の家のそばを通りかかった時に「おいなんか最近呂蒙がちょっと勉強とかしてるらしいぞ。ちょっと冷やかしてみようか」
とやってきます。
そして出てきた呂蒙に問答などしてみると、これは驚いた、以前の呂蒙とは全然違っていて受け答えもはっきりいているし、何よりも内容がある。このことに驚かされた魯粛が言ったのが
「呉下の阿蒙に非ず」ですね。
あのおバカな蒙ちゃんではもうないんだなと。
そして呂蒙も返します。
「男子三日会わざれば、刮目して見よ」ですね(「士別れて三日すれば、即ち更に刮目して相待すべし」とも)。
男たるもの、三日会わなければよく見てみろと。
全然別人になっているかもしれんぞというわけです。
こうして孫権や魯粛からの信用も得た呂蒙は大都督として魯粛の次に荊州を任されることになり、関羽や曹操を相手に呉軍の指揮を執ることになります。
・ところで蒋欽は、となるとその後聞きません。
一応もともと頭は良かったようですが、勉学に励んでさらに良くなった、それを活かした云々という話は聞きませんし、呂蒙の次は陸遜ですから大都督となったというようなこともありません。
孫権としてはどちらにしろ次代の大都督となり人々の模範になってくれるのであれば、もしかすればどちらでもよかったのかもしれません。
仕入れた生兵法で失敗したとも、兵法を生かして大成功したという話も特にはありません。
・ところで学問で失敗した人の話は多々あります。
先日上げた馬謖は
「高いところから敵を見下ろせばその勢いたるや破竹の如しだ」と街亭の山上に陣取り、司馬懿に包囲され、水がなくなって全員で飢えることになり蜀に大敗をもたらしました。
また、趙の名将といわれる趙奢(ちょうしゃ)の息子趙括(ちょうかつ)は幼いころから父を言い負かすだけの才能は見せましたが、父は警戒していました。
「あいつの兵法には実と経験が伴っていない」と。
そして天才と言われた趙括は趙軍を全て任され長平の戦いで大敗し、趙が滅びるきっかけを作ることになりました。
・つまり実あっての学問だということができるでしょうし、同様に学あっての実ではないということができるでしょう。
呂蒙と蒋欽も学を学びましたが、それは豊富な実体験に学問がプラスするような意味はあるわけですが、学問の後に実体験が続くというようなものではないわけです。
ところが趙括と馬謖の問題点は、先に学問があり、その後に実体験があった。
先行するのは学問だったというわけです。
実体験という無限の可能性と混沌とした世界がまず前提としてある中で、学問というのはある程度の体系を筋道立てて考えることができたに違いない。
ところが、学問が先になるとそうした混沌の中にある有象無象は最初から切り落とされることになる。
天才の子が天才でなくなり、社長の子が社長でなくなるというのはこうした話の切り取られ方に基づくものであると言えるのではないでしょうか。学問や理論は確かに素晴らしいものであり、だからこそ孫権も勧めていると言えるのでしょうが、でもそれがいかに危険であるかについてははるか昔に趙括がこうして示している通りです。
それでも孫権が勧めているということに大きな意義がある。
学ばせないという態度の方が余程賢そうなものですが、そうではなかった。
学問が先か実体験が先か。結果的にはどちらが先であるにしろ最終的には同じだと言えそうなものですが、その末路は全然違うものになりそうですね。
呂蒙と蒋欽、馬謖と趙括を分かつものが何なのか、深堀りするとまだまだ面白そうです。
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