「大金でも一時の喜びを得るのは難しく、たった一杯の飯が一生分の感動を与えることもある。
あるいは愛が重すぎて仇となることもあれば、薄情さも極まれば喜びをなすことがある」
・プラスなことがあることがいい結果をもたらすのではないと。そう単純ではない。プラスなものが全然ないような状態、いっそマイナスだらけの時にある少しのプラスが極上のプラスになる時もある。
「愛」というと「愛情」とかの感じが先に来そうですが、この愛というのは「愛惜」とかの方が近そうです。「惜しむ」というニュアンスが近いんじゃないかなと。モノを大切にするとか、相手を大切にするとかの方が原義には近いんじゃないでしょうかね。それが恐らく西洋の「love」に相当するものと≒として「愛」とか「愛情」になったんじゃないかなと。だからそう思うとこの「愛」というのはやや広義な気がします。
・諸葛亮の弟子に馬謖(ばしょく)という男がいました。
「泣いて馬謖を切る」で切られたあの馬謖ですね。
馬謖
「馬氏の五常、白眉最も良し」
と言われたりしますが、この馬謖の兄が馬良(ばりょう)といい、最も優れているということで評判でしたが夷陵の戦いにおいて戦死したようです。40にいかないくらいの年齢ですね。このことは、いかに蜀が夷陵の戦いにおいて惨敗したかが分かる話の一つだと思われます。有力でまだ若い蜀の将兵が陸遜の火計によっていかに徹底的に打ち破られたか。
・馬謖はその馬良の弟であり、諸葛亮にたびたび献策をしています。例えば成都(せいと、いまのチャンツーですね)の南へ諸葛亮が南蛮の孟獲(もうかく)討伐に出る際には献策をしていますし、その後にも司馬懿を魏で失脚させるための献策をしており、そのことごとくを成功させています。献策の素晴らしさ、見どころの良さ、そして具体的にそれを成功させるための具体的な段階の的確さ。そうしたものが諸葛亮に高く評価されていたのは間違いないでしょう。
そして諸葛亮への献策係として非常に優秀だったのも間違いないです。
だからこそ諸葛亮は馬謖に街亭の戦いを任せることを決意したという経緯はあると思います。
ところが馬謖はここで大敗をすることになります。
街亭の戦い
相手は司馬懿であり、かつて失脚させた「大したことのない」相手だったこと。
そして自分はたくさん献策をしてきており、あの諸葛亮にも認められていること。
様々なことが「プラス」に感じられ、恐らく馬謖の中では司馬懿は自分以下だと思えていたことでしょう。
ところが司馬懿はたびたび書いている通り名将ですし、成功を続けている馬謖はその実失敗がないと。失敗を知らないで来ている。つまづいた経験があまりにも少なかった。さらには軍を率いることなど経験皆無といって良かった。
それを抜擢して総大将を任せたのは諸葛亮でした。その抜擢というのは、あまりにも傍にいて、馬謖のその輝かしい成功を見すぎていたことが諸葛亮の目を曇らせたのではないかと思えます。感情移入しすぎていた。
劉備は生前に諸葛亮に言います。
「あの者は口が達者だから注意した方がいいぞ」と。あの者というのは馬謖ですね。さすがに劉備は平民から皇帝まで様々なことを経験してきているだけのことはあります。献策だけで次々と成功してきている口達者だが実の伴わない若造とみていたのでしょう。
しかし諸葛亮は馬謖を見捨てることはありませんでした。
・なぜ馬謖は切られたのか。
いろいろあるんですけど、一番大きいのは献策であまりにも華々しく成功しすぎていたことが大きかったと思います。成功がかなり大きく裏目に出ていた。もっと失敗して若いころからしっかりと実戦でその経験を積んでいたら街亭の戦いはそもそも全然違っていたように思われます。
次には、諸葛亮の目が成功によってくらんでいたことでしょう。馬謖は成功はしてきたかもしれないが、それはあくまで献策係としてのものであって軍を率いてのものではないということをもっとしっかり把握していなくてはならなかった。二つをしっかりと峻別できていればこういう間違いは起こらなかった。「馬謖は頭がいいから、呂布に一騎打ちしてを挑んでも知能で勝てるだろう」と一騎打ちを挑むくらい分野を区別していないってのは致命的です。
そして三つ目ですが(これはおすすめはできませんが)劉備の言葉を鵜呑みにしておれば、防げたと思います。確かに劉備の言う通りだと思って遠ざける。馬謖の献策を重用しない。そうしておれば街亭の戦いはそもそも「いかせてください」という馬謖の頼みを断ることもできたでしょう。ただこれは、それによって現実のものとできた南蛮攻略戦や司馬懿失脚作戦もなくなることを意味していますので、これがいいとは一概には言えません。
四つ目はこれを踏まえて、加点主義と減点主義とを併存させることが重要ということです。
計略は思ってもみないところから考えることに大きな意義があるという意味では、馬謖の突飛な思いつきも非常に良かったし、また結果がそれについてきたわけです。それに失敗したとしても別に痛手はない。このことについては加点主義で考えていくべきでしょう。
ところが軍を率いるということはちょっとしたミスが命取りになりかねません。水がない、食料がない。囲まれた。こうしたことが全滅をもたらす危険があります。つまり減点主義を主体にして考えるべき分野だと言えます。その加点主義であるべき分野と減点主義であるべき分野とをきちんと分けて考えることができなかった。そこにも大きな問題があるといえるでしょう。これについては「減点主義がよい」とか「加点主義がベストだよ」とは一概には言えません。それぞれが向いたところがある、向き不向きがあるとしか言えません。そして諸葛亮はその分野の選定についてを間違えたということです。
ただ、どうすればあの街亭の戦いの負けは防げたろうかと考えることは今を生きる者にとっても有意義な点が多くみられると思いますので、今回ちょっと取り上げて考えてみました。
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