菜根譚50、前門の虎、後門の狼






 「家の者に過ちがあったならば、決して激怒するべきではない。かといって軽視するべきでもない。
 このことが言い難いのであれば他の事を借りて暗に相手をいさめ、それに今気づかないようであれば別の日を待って再度戒める。
 ちょうど春の風が氷を解かすよう、和気が冷え切った関係を解かすように。
 これこそ家庭の模範とすべきところである」


 ・私も短気なんでけっこう直情的に言いますが(笑)、これは重要ですね。
 歴史を見てると親族って安心できるから各地の王を任せるとか多々あるように思います。劉邦が天下統一した後には功績のあるものは駆逐され劉氏が各地の王となった。その後はその妻の呂氏が天下を握った。
 かと思えば後世では司馬炎の司馬氏が各地の王となっていますが。これがきっかけとなり八王の乱が起こっています。


 司馬一族同士の殺し合いですね。
 そもそも親族を置きたがる気持ちと言うのは「裏切らないから、安心できるから」という気持ちがあると思うのですが、実際には司馬一族は親族同士で殺し合いをしています。

 「じゃあ親族を据えても意味ないじゃん」ということで後漢の光武帝をみてみますと、
 光武帝

 とにかく皇帝に権力を集中させたようですね。
 雲台二十八将(うんだい28しょう)というのがあるんですが、功績のあった28将軍ですね。この人たちもそれなりの褒美はもらえたようですが、かといって王とかになれたわけではない。親族をそこまで取り上げない代わりに、功績のある人々もそこそこの地位に置くと。ある意味平等だし公平、皇帝だけ一強にしたわけですが、それが宦官による腐敗を招き、幼皇帝を樹立させればオレたち好き勝手できるじゃんと言う流れに繋がったわけですね。
 これへの憤りが黄巾の乱へ、董卓(とうたく)が好き勝手する流れへと繋がっています。

 黄巾の乱
 董卓


 ・これは前漢の劉邦の統治へのある意味では反省だったのでしょうが、秦の始皇帝による統治と実質的によく似たものだったと言えるのではないかと思います。始皇帝一強であり、中央から官僚が派遣されてくるという郡県制。光武帝がよく考えて出した結論が始皇帝とそっくりになったのは皮肉か妥当かわかりませんね。秦も宦官の趙高(ちょうこう)によってあっさり滅ぼされましたから、それを考えると似たようなことを行い、似たような結末を迎えるのは皮肉ですが、まあ当時「郡県制はあそこが悪い」とか「それによって出てきた趙高は悪い」などといった見方が光武帝にどこまであったかは疑問ですから、光武帝を責めるのも酷かもしれません。

 郡県制

 重要なのは「まあいろいろ考えたのかもしれないけど、要するに滅んだんだね」ということかもしれません。それを思えば、これらのことを俯瞰して考えられる徳川がそれらを考慮して徳川幕府を始めたところがすごいことなのかもしれません。それによって260年くらい幕府やってたわけですから。いろいろヒントになるものがあったのでしょう。
 まあここで思うことは、「親族を置いておきさえすれば滅ぶことはない」と思って多々滅んでいること、「じゃあ皇帝一強にしよう」と思ってやはり滅んでいること、それを繰り返している歴史があるってことですね。「前門の虎、後門の狼」あるいは「前からくる矢、後ろからくる槍」というような比喩で言われますが、まあ後ろからの攻撃の方がダメージは大きい。それを思えば「敵を作らない」という処世術というか基本方針は重要だと思います。





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