完全さと不完全さ





 人は完全か、といわれれば完全さからほど遠いのが人だと答える。何をするにしてもほとんど不完全、気長にいきたいところで短気を起こし、決断力のいる場面でのらくらやる。ある意味こうして期待をことごとく裏切り続けるのが人かも知れないし、人が人足るゆえんはこうなるだろうな、どうせこの程度だろうなという期待を裏切る、よくも悪くも裏切るというこの気まぐれさこそが人ということなのかも知れない。
 少なくとも、人は刻苦勉励して努力に励み、自らの不完全さを完全にするために生きる、その自らの運命の克服こそが人……などというよく言われるようなヤツが人の生きる道だとはどうしても思われない。それを言うなら人に期待するよりは機械に期待するほうがよほど正確でよほど的確、よほど迅速で間違いがない。
 一昔前ならいざしらず、少なくとも現代においてそれを人に求めるのは間違っている。もしそうするのであればよほど効率が悪く求める方向性を間違えていると言わざるを得ない。


 ・そういえばこんな話がある。
 とある三国志ゲームで司馬懿主人公でやった時のことである。
 全能力値を100とし、全ての特技をもち全ての戦法を会得し、さあ人生これからだという時には83歳。まさかの人生まさにこれからというタイミングで司馬懿は老衰で死んでしまった。
 長い間の鍛錬を耐えぬいて完璧を体現し、さあ人生これからというタイミングでまさかの死を迎えてしまった。五丈原に行ったこともなく諸葛亮と対峙したこともなければ、公孫淵の討伐にも行ったことはないしひたすら都で労働に励み、住民と仲良くし、鍛錬に精を出して一生を終えてしまった。
 史実からは考えられないほどこの司馬懿は勤勉で、野心の欠片もなく、慎ましくただひたすら己の完璧を目指し生きていった。そして死ぬ一月前にとうとう完璧な存在となり、そして死を迎えた。
 ゲームの中でさえこの調子だから、現実の生は言うまでもない。完璧を目指すためには人間はあまりにも不完全だし、完璧になるためには時間がかかり過ぎるし、完璧になってみれば人生残り少なくなるし、そもそも完璧を目指すのであれば機械なや任せたほうがよほど的外れでない。考えるまでもなく完璧な生など(人がその人生において)目指さないに越したことはない。
 そしてオレは完璧だと思ったらそれに比例して寿命は残りわずかとなっていることが多々ある。この司馬懿の例のように。そういうわけだから、人生で完璧さを求めようとするよりは不完全さを割り切って、不完全な中に道を探すような生き方が望ましいと考える。
 完全になってから、では人生は遅すぎるのだ。










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