大造じいさんとガン②どうどうとたたかおうということ






 この話は大造じいさんとガンである残雪の「戦い」なわけですが、でも方や猟銃をもって仕留めようと虎視眈々と窺う側であり、方や逃げるしかない攻撃能力もなく別に危害を加えてくるでもないただの鳥です。そりゃ賢いかもしれませんが、別に追い掛け回してる大造じいさんが夢中になって走っていると肥溜めにハマって出られなくなったとかいう描写もないので(そんなのがあったら大問題ですが(笑))別に憎んでいる風でもない。
 これを「正々堂々の戦い」なんて呼んだら人間社会では大変なことになります。
 ソ連対日宣戦布告
 これによって太平洋戦争末期に日本に対しソ連が侵攻をすることになる(8/9開戦であり終戦後も戦いは続いた)のですが、これのために日本側は満州から引き揚げをしてその時大変な目に遭うわけです。銃だの戦車だのあるソ連軍に対しほぼ丸腰の人々が襲われることになりますが、この理屈からいくとこれも「正々堂々の戦い」ということになります。知恵を使って巧みに逃げる一方の人々と、武装をし一方的にやる側とが正々堂々とみなされたらたいへんなことになります。事実なりました。まあそこまで大真面目に捉える必要もないのかもしれませんが、ここにある「正々堂々」の感覚というのは大変いびつであり歪んでいるということはできるでしょう。


 ・「おーい。ガンの英雄よ。おまえみたいなえらぶつを、おれは、ひきょうなやりかたでやっつけたかあないぞ。なあおい。ことしの冬も、なかまをつれて沼地にやってこいよ。そうしておれたちはまたどうどうとたたかおうじゃあないか。」こういって傷の癒えた残雪は飛び立っていき話は終わりますが。この「どうどうとたたかおう」という言い方が引っ掛かるわけですね。
 「どうどうと」というのは「威風堂々」の方の堂々と「正々堂々」の方のとに微妙に分かれるような気もしますが。あるいは「いや、ここでは正々堂々と、という意味ではなくて威風堂々と、という意味なんだよ。銃と丸腰で正々堂々もクソもあるものか」と言えなくもない気もしますが、まあとはいえ銃口を前にした威風堂々もないような気もします。どちらにしろおかしい。
 「おーい。日本の英雄よ。おまえみたいなえらぶつを、おれは、ひきょうなやりかたでやっつけたかあないぞ。なあおい。ことしの冬も、なかまをつれて満州にやってこいよ。そうしておれたちはまたどうどうとたたかおうじゃあないか。」こういって未だ傷の癒えぬ日本は船で帰国していきとなると、撃つ側としては「清々しい戦い」かもしれませんがやられる側としてはたまったものではないですね。


 ・まあこの場合の「ひきょうなやりかた」というのはあくまでも罠の話でしょう。釣り針を仕掛けてガンを捕えようとしたり、エサで釣っているうちに小屋を作ってそこから見張っていたり、さらには飼いならしたガンを使って残雪一味を誘導しようとしたり。大造じいさんは様々な姑息な手を使ってなんとしても残雪の仲間を捕獲しようとします。しかし残雪が賢いために仕掛けが看破されてしまいうまくいきません。そういう意味での「ひきょう」ではあっても基本的に猟銃を使うということを「ひきょう」のうちに分類しているようには思われません。


 そもそも人間は非力な存在です。
 「正々堂々」なんていったってクマに丸腰で敵うわけもありません。罠や仕掛けを使うことなしに、ガンが空を飛んでいたらもうそれだけでお手上げです。サルだって噛みついてくれば人の骨を砕くほどの力があるという話ですし、野生の動物のすごさに比べれば人間というのはなんと弱いものか。そうなると正々堂々どころか同じ土俵に上がることがそもそも難しい。それこそ銃があって初めてその土俵に上がられるということはできるでしょう。これくらいのモノがなくてはそもそもその土俵に上がることが難しいと。間接的に攻撃できてこちらは無傷、あっちは一撃死。これくらいのハンデがあってようやく戦うことができると。
 でもそれにしたって銃は強すぎやしないかという感じがあります。事実銃によって人間は世界をほぼ完全に手中に収めたといっていいでしょうし、いくら日本刀が優れていたとはいっても銃の前には手も足も出ません。そうしたものを振り回してしかも「これでようやく対等」といったとしても果たしてどこまで説得力があるだろうか。
 恐らくはこの「正々堂々」という理屈がそもそも後付けの理屈なんだと思います。まずはどんなに卑怯であっても生存を確保する、その後にその卑怯さを思ってそれを肯定し、自分を含めたみんなを納得させるための理屈を考案する必要があった。だからこそこの理屈というのはその存在からして歪んでいる、歪んでいるものを認めてその歪みのままにあるということがある意味では「人間らしい」ということではないかと。
 つまりは銃に理屈などはないし、そこにある理屈に認められる理由もそれはそれでかなり歪んでいるということになるのではないかと思います。ソ連風に言った物言いがものすごくゆがんでいるように書きましたが、そのくらい歪んでいるものをどう言い繕ってもおかしいし、ある意味ではこのおかしさをおかしいと感じる感覚こそが必要ではないかとも思います。


「おーい。日本の英雄よ。おまえみたいなえらぶつを、おれは、ひきょうなやりかたでやっつけたかあないぞ。なあおい。ことしの冬も、なかまをつれて満州にやってこいよ。そうしておれたちはまたどうどうとたたかおうじゃあないか。」






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