ということで「大造じいさんとガン」です。
小学校の図書館には大抵おいてあるヤツですね。私も小学生の時に読みふけった記憶がありますが、じゃあこれを今読むとどうなのかということを書いてみようかなと思ってます。
当時は痛快さとか自然と人のありようみたいなものを感じて清々しさみたいなのを感じていましたが、今見ると少し(というか結構相当)違うなという印象です。
・大造じいさんは72歳の老人ですが、背も曲がっておらずすこぶる健康的です。そして昔の話を語り始めるのですが、それが35~36年も昔の話であり、ですから大造じいさんが37歳くらいの時の話ですね。
当時「残雪」(ざんせつ)という賢い頭領のガンがおり、この賢いガンのおかげで全然ガンが取れなかった。これのおかげでゆかいで愉しいはずの狩りが全然楽しくなかったと。大造じいさんは当時このことに対して「いまいましい」と感じていたことが語られています。
・この愉しさに対する感覚は重要だといえるでしょう。狩りなんて取ってナンボ、収穫がなくては生活がしていけない。それが全くない状態が続くのですから面白くないのは当然です。詳しくは話を追っていきたいのですが、自分が仕掛けた罠にガンが入る楽しさもあります。「ガンはとかカモとかいう鳥は鳥類の中であまりりこうなほうではないといわれていますが」とある通り、愚かで罠を見抜くような真似は当然できないだろうという前提で狩りは行われますが、残雪はそのじいさんの仕掛けをことごとく見破っていきます。「どうしてなかなか、あの小さい頭のなかに、たいした知恵をもっているものだ」と感嘆しますが、しかし感嘆してばかりもいられません。自分の生活がかかっているわけですから。
この狩りの愉しさと真逆な言葉として「いまいましさ」という言葉が挙げられるでしょう。バカなヤツだ、こんな簡単な仕掛けに引っ掛かりやがったということとこれで収穫があったという喜びと対照的に、意外と賢く罠をことごとく看破していく様子とそして収穫がないということ、感嘆しているうちに思うことはその罠を見透かされ見破られるいまいましさです。人間の方ではガンは賢くないと思っていますから大した仕掛けをしませんが、そのガンに見破られるほどの「ちゃちい」罠であればこんなんでかかるとでも思っているのかと言わんばかりにガンたちはスルーしてきます。でもそれではプライドが許さないので(笑)、「残雪はなんて賢いヤツだ」というように話が推移しているのだろうと思われます。まあ事実残雪以外のガンは引っかかるのでしょうし。
・この本は1978年に出ていますが、この話自体は1941年に出されたもののようです。つまり戦中も戦中、この年の12月に真珠湾攻撃がなされてますからその戦争の気運とか情勢とまったく無縁だとは言い難いといえるでしょう。吉川英治なども「上杉謙信」を戦中に書いていたように思います。まあ話を広げていけばキリがないのですが、そういう当時の気運とか戦争という当時の時勢と合わせて読むことも可能だとは思いますが、そこまで深く見ようとは思っていません。
問題はこの書き方によって今、現代ってのが果たしてどうなのかということが表されるということにはっきりと表わされるということのうちにないだろうか。
今なら今風な書き方とかものの言い方はばかり方みたいなものがありますが、何しろ80年前ですからそんな忖度は一切ありません。ですから、「狩りが楽しい」とか「ガンは小さい頭してるくせに意外と賢い」みたいなずけずけした言い方が完全に許容されている。しかしこういう感覚はこれはこれで大切だとは言えないだろうか。
・狩りというのはほぼ必ず対象の殺害を意味します。命を奪う、奪った命を食らって自分の命の役に立てる。一寸もムダにはしない、粗末にはしない。そういう心がけも大切ではあるでしょうが、我々現代人はあまりにも命の神聖さに囚われ縛られ過ぎてしまっていないだろうか。なぜそうなのかといえばこれは一種の皮肉であると思えるわけです。命というものがあまりにも粗末に扱われすぎる時代性になってしまったことが、かえって我々をそこから目を背けさせなくてはならないようになってしまった。この当時の時代に比べて機械にかけてブタをたくさん一瞬で殺して食らい、余れば簡単に捨てるようになった。そして余ったものを捨ててもなんら良心は痛むことはない。ブタの命は経済の秤にはかけられても良心や信条で機械を動かすわけではない。利潤のため経済のために動くわけですから。大局的に儲けになりさえすれば、その命の行き先がゴミ箱であろうと人々の胃袋であろうとどちらでも構わないという時代性がある。逆にいくらそれが神聖であろうと儲けにならなければ何の意味もないとこうなる。ゴミ箱だろうがどこだろうが、利益になればなんだっていいわけです。そうした経済に対する原理主義的な思想が確固としてあり、我々はその経済原理と思想性からはなんだかんだ理屈を並べたところで逃れられるはずはない。それでもそうしたやり方をしている以上は両親は痛む。だからこそ我々は敢えて古臭く何の役にも立たなくなった(これは経済に比してという意味で言っています)良心の問題を仰々しく取り合げて奉らなくてはならなくなってしまった。でもそれは経済の問題と良心の問題という風に別々に分離して取り出している以上全くの別物であることに異論はないと思います。人間だって頭と血と骨と肉と内臓とを別々に取り出して「人だ」と言ったってそれは死んでいるわけで。これを1+1+1+1+1=5だ、したがって二者はイコールだ、死者も生者も同じだと語れるようであればとんでもない詐欺師だと言わざるを得ない。
この時代はそこまでのことはしませんが、経済原理に好き勝手に散々食い荒らされた食い散らかされた跡地にでかい「良心」の風呂敷を広げてせめて覆い隠してやろうというくらいの気遣いあるかとは思います。
続きはまた。
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