問題と解決と問題解決






 似たような題名だが。
 いつも通りグダグダと書くことに。


 ・先日、死んだ祖父母の家へ行った。もう死んでからけっこう経つもののそれなりに管理はされているよう。
 オレが数年前に設置した蚊取り装置ならぬメダカ育成用の鉢は健在で、蚊をここ数年猛烈な勢いで減らしている。それこそ3桁の蚊が2桁台に、それも20匹程度にまで減少したところからも効果のものすごさを痛感する。ほとんど世話してないがきちんと効果を発揮してたんだなあとしみじみ思った。


 ところで、なんでメダカの鉢をオレは設置したんだ?
 そりゃ蚊がものすごく多くて悩まされていたからだ。でもその恩恵を受けるべき住人はもういない。そうなると恩恵も効果もあってないに等しいといえる。問題「解決」の前に、そもそも「問題」がなかったとすれば、そこに解決の方向性はない。もちろん蚊が激減したという事実はあるだろうものの。この問題と解決の溝、というのは思ったよりも根深いものがありはしないかとふと思ったのだ。
 そもそも、個人的には比較してそのビフォーアフターを体感しているから「激減した、効果がある」と言えるのだが、その比較がなければ蚊が減った、なんてことでさえ把握されるのは非常に難しい。効果も確認されなくては効果にならない。「統計学最強」じゃないけど、それこそグラフにして張り出せばそりゃわかるだろうが、そうでもないとこの変化をきちんと把握するというのは想像以上に難しいらしい。体感すればわかるじゃん、とはなかなか言えないのだ。
 0匹になればさすがに誰にも分るだろうと思ったものの、でもそれは「いる⇔いない」レベルの話であって。要するにオレの言っている「300匹台くらいが20匹くらいに減りましたよ」なんて話も「でもまだいるんだよね?」という話でくくられる程度の話だってことだ。例えて言えばこれは住宅をキレイにしましたよ、ネズミやあるいはシロアリが300匹から20匹に減りましたよ、と言われたところで「え? まだいるんですよね?」「寝言言ってないで駆除して絶滅させてください」というような話の方に近いのかもしれない。ここで求められている変化は減少とか激減ではなく、撲滅であり絶滅なのだ。


 ・「問題解決」というのはここらへんの事情を踏まえて打ち出されるもののように思われる。つまり0(あるいは効果の最大化)に対する意識、方向性、力、そうしたものが激減などという変化や状態ではなくはっきりとした結果を求める。ここに問題解決があるのだが、そうなるとじゃあそれらの意識、方向性、力というのは当然解決のために役立つと思われるだろうが、恐らくそれは錯覚なのだ。本当に解決しようと思ったならばそれらを身に着けていくってのは一つのありようではあるが、でもそれらをすべて捨てるというのも解決だししかもけっこう正統派な解決なのだ。
 要するにすべてきれいさっぱり忘れる。オレの手には負えないとさじを投げる。テレビでも見てる。こっちの方が問題にマジメに取り組むよりもなんぼか正統派であり、そしてなおかつ効果的な手でもある。地動説だって天動説に科学的に勝ったから大々的になったわけではない。天動説を信じる石頭たちが時間の流れと共に絶滅したことが結果的に「解決」したのだ。この圧倒的かつ正統な勝利に比べれば、相手を論破して言い負かして屈服させる、なんてのは労力もムダであればプライドもズタズタにさせる。戦うことからしてムダが大きい。「解決」ということに関してはこの人類の偉大なる叡智を活用しない手はないといっていいだろう。自分のやってきたことが全部間違いだというつもりはないが、しかしこういう解決もあったのかということを知って頭の片隅に置いておくだけで全然違ってくるに違いない。解決は屈服ではない。ゲームでどうしても勝てない強敵に出会ったら、最後まで徹底抗戦するのも道だがリセットするのも同じくらいに価値のある「解決」だと言える。





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