気が向いたので近未来の銃社会化予測






 ということで日中これはなぜあれはなぜといろいろ考えていたらふと思いついた、ということを並べていこうかなと思います。
 多分日本は近い将来銃社会になるんじゃないかなというのが結論です。


 ・そもそも先日のニュースだかを見ているとクマの被害が急増しているのが日本の現状です。でもクマさんが可哀そうとかいって猟師が叩かれたり、あるいはすべての罪を背負って強引に市の強制力で辞めさせられている猟師がいるのが現状です。となると、クマやイノシシは右肩上がりに増えるし、田舎から出ていく人は多いし、管理されない土地も増えていき、柿とか栗とかが野放しになると。そうして危なくなるから人が出ていく流れもできるだろうし、それに伴って勢力を広げるクマやイノシシも増えるだろうことは間違いないでしょう。
 クマやサル、イノシシ。そういった害獣が今後盛んになるだろうことと、それに対処する猟師の減少ですね。そうなるとじゃあ誰が対処するのかとなる。今までは「誰かがやってくれる」で良かったわけですが、誰かがやってくれるで放置していたら自分のところに飛び火してくるようになる。そうしたら自分たちでイヤでも身を守る流れになっていくでしょう。つまりは銃の資格を取って自分で銃を持ち、自分たちの身は自分で守る流れになるでしょうが、その頃にはクマも結構増えてて被害が拡大しているんじゃないかなと。つまりクマに襲われる人が目に見えて増えるようになって、こりゃヤバいぞという危機感が生じて初めて武装する人が増えるという流れになるでしょう。
 ところが恐らく今でさえ右肩上がりで増えているんだから、ちょっとやそっと武装したくらいでそれに追いつけるかとなる。車だってひっくり返したりする動画が上がったりしている有様ですから。そうなると高年齢の手練れの猟師も続々と引退してますし、恐らく手におえない。そうなると強力で強い銃をもっとアメリカから導入しようよという流れが恐らくできるんじゃないかなと思います。しかも資格とかももっと緩くていいから手軽に持てるようにしようよと。
 そうやってアメリカの銃社会からいい銃を購入できる体制が整うことになる、でもそうなると困ったことに今でさえ治安の悪化が目に見えてわかるのに、誰でも銃を持てるようになったら困るじゃないかと。誰でも銃を持てる状況を何とかする必要がある。そうなると銃を高額にする必要があるでしょう。つまり格差社会ってのは銃を持てない層を作り出すための装置であり、銃を持てる「我々」が安心して銃を管理できる社会、そうしたものを作っていく必要があるとそう流れをもっていきたい流れがある。バカで下等で何を考えているかわからんヤツら(アメリカで言うところの黒人層みたいな感じですね)に持たせるよりは、賢い特権階級層が大手を振って銃を管理できる社会にするべきだと。
 だから今の流れは銃社会化をもたらすためには必要だったんじゃないかという話ですね。そもそも豚コレラ問題から結構経ちましたけど、あれでアジア諸国に輸出するヤツは全部ストップしているはずです。ものすごく基準が厳しくて通すのに10年とかかかったという話なのに、なぜああもあっさりストップされて日本に数千万円単位での損失が出ているのに、あの豚コレラ問題に対処しなかったのか。本気でやろうと思えば日本ならけっこう簡単だと思います。明治期にやったように、いやそれ以上に簡単にイノシシもクマもサルも全滅に近い状態にまで追い込むことはけっこう簡単にできたはずだし、その選択肢は当然あったはずです。でもそれをしないでみすみすそのなんとかってヤツもせっかく批准したのに白紙にしてしまった。その責任者は一体何をしてるんだろう、というか責任者ってどこにいるんだろうかというような印象を感じたことを覚えてます。イノシシなんかさっさと駆除すればよかったのに、ではなく恐らくイノシシやクマを駆除されては困る問題がこの問題の根にはあるんだろうなと最近思うようになってました。それがつまり銃社会化できないということなんじゃないかなと。そういう流れが目に見えないところでは進展しているんじゃないかなって話ですね。
 でもまあこれからどういう風に進展していくかってのはすでにかなりの部分決定されていると言っていいでしょう。誰もが一生懸命やっているし、よくやっているのは間違いない。多分誰を責めても「オレは一生懸命やってんだ!」というに決まっています。100点満点の成果を出し続けねばならないのが社会人ですから。でもその頑張りって本当にすべてなのか。それは考えられる必要があります。言ってみれば国数英社理、5科目あるのに「オレは国語100点だったんだぞ! 最高の成果だろうが!」というのにそれはよく似ている。本当は500点満点なんです。でも残りの400点に目を向けない上での「国語満点」なんですよね。数学や英語は「きっと誰かがやってくれている(だろう)」でやれていた、ところが気づけば誰も英語やってない。英語やるヤツがいなくなっていた、だからイヤでも自分で英語やらざるを得ないという流れによく似ています。今の100点は本来やるべきこと全体の20%ほどだった……という話ですね。そういう意味での「よくやった」「よくやっていた」ってのが散見される気がするけど、それはなんか違ってないかという気がする。確かにベストは尽くしたろうし、時間も労力も最大限に使った、でもそれしかなかったのか? といえば本来はそんなことはない。そんなことはないんだけど、でもそっちに目を瞑って「ベスト」を作り出すというような話が。それの連続が30年50年と続いてきた結果が今、という感じがする。「誰もが一生懸命やってきた」し、「一生懸命やってこなかったヤツなどいない」のだ。


 あと1個何か考えてたんだけど忘れちまったんで終わります(笑)
 なんだったかなー















この記事へのコメント

  • 言霊

    紹介

    言霊学・コトタマノマナビ
    2020年11月14日 03:17
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