アドバイスがいかに厄介なものかということはちょくちょく考えたり書いていて、でふと思いついたのでメモがてら書くことに。
アドバイスっての当然問題を抱えている人間と、その問題を相談している相手がいるわけで。
そうすると相談するってのはアドバイスを求められており、当然その答えをなんらかの形で出すことを期待されている人がいることになる。それっていうのはアドバイスが当然求められている=それだけの地位と資格と能力があることの証明でもあるのだから下手なことは言えない。それは加点主義というよりは減点主義であり、下手なこと言って「ああこいつに相談したオレがバカだった」とならないために必要とされる必要最低限の保たれるべき点数であり、言ってみれば赤点ぎりぎりのラインになる。
それというのはアドバイスに常に「係数」としてかかっていることになる。だから加点主義で冒険しろみたいなこと言って「おい」とならないためにはけっこう必要なことだし現実感覚でもあると思う。しっかりしているということはそういうことでもあるわけだから。次にまたアドバイスを頼まれるというのはよほどの信用がなくてはならないし、逆に頼まれるということはそれだけの妥当性があることにもつながる。……とはいえ厄介なのはその「係数」であって、それはじゃあ一体どの程度かかっているのというのは大問題だと言える。
そもそもアドバイスを頼むってことは解決しなくてはならない「問題」を抱えているというわけだ。つまりは問題解決という話だし、問題解決能力がどれほどあるかという話になる。
ところがそこにこの「係数」ってやつが割り込んでくる。そうなると問題解決ということと係数とは対立する。あるいは共存することになり、じゃあふたつはどのくらいの割合で存在するの? ということが問われるようになる。そうなると意外と問題になるのはこの係数の比が大きいということであって。
・アドバイスに最も不向きであるはずの加点主義が最もアドバイスを頼むには向いているというのはこうした事情による。どうでもいいことを「こうしてみたら?」と冒険しろみたいなデタラメを並べるやつは「バカかてめえは」とか「ああ、こいつにアドバイスを頼んだオレがあほだった」と思われかねないけれど、でも案外非常にいいアドバイスであることが少なくない。なんでなのかといえばつまりはこの「係数」が少ないということによる。こうしてしっかりしておらず、他人事だからと割り切って無責任にアドバイスできるヤツはもうアドバイスされることがない。
・この議論がどこに行きつくのかといえば、「問題が起きてるんだけどどうすればいい?」となった時に減点主義かつ無難の極致として
「その問題を解決することは難しいから死んだ方がいい」というような結論に行きつくことが多いってことだ。これっていうのは集合知の最も妥当にして最も愚策と呼べるだろう結論だと思うけど、最も賢く、最もしっかりしている人の集まった結論がこういう形になることはけっこう珍しくないなと。
で、その結果として大なり小なり本当に死ぬ。本当に死ぬ場合もあれば、社会的に本当に抹殺されかねないところまで落ち込むこともある。それというのは「問題解決<アドバイスを受けているオレたちのメンツ」となることによって引き起こされるように思われる。だから「係数」ってのがバカにならないってのはこの意味での話になる。解決のためのアドバイスが、アドバイスを頼まれたオレたちのための解決でなくてはならないんだと。オレもこれで本当に死ぬかけたことがあるけど、でもアドバイスをしてる側としては親切心とメンツがあるものだからその後もフォローして「ちゃんと言われたとおりにやってるか?」と確認してきたりする。それでちゃんとやってるから死にかけてたりするわけだけど、ちゃんとやってるもんだから「よし」となったりする……(笑)
だからしっかりしているってことは結構アドバイス不向きだよねってことと、アドバイス頼んで「あほか、それができれば誰も苦労しねえよ」と思わず言ってしまいたくなる人は結構アドバイス向いているなということで。
アドバイスの無責任さ(まあそりゃ他人事なんだから無責任でいい)ってのと、そのアドバイスの言ってしまった以上の強制力というのはあって。アドバイス言った以上は責任もってその後も見守らなくては……みたいなこともあったりするけど、でも「こうした方がいい」というスタンスだったはずのアドバイスが「こうしなくてはならない」というものになったとしたらそれはもう本末転倒でしょうと。そうなるとアドバイスがという名目の実質的な命令みたいなのも多々あるけど、大体こういうヤツは無視した方がいい。係数100%みたいなのが多いから。
昨今のアドバイス全盛期ってのはアドバイスが猛威を振るってるけど、でもそこにある前提というのは「相手のためを思って」といういわば善意になると思うけど、実際はそうじゃない。そこにある前提は係数なんだって話。係数と善意とをまぜこぜにして話が進むから話がややこしくなる。
というより真のアドバイスであれば(それが真にアドバイスであるとすれば)「こいつのアドバイスはクソだ」と言って蹴ってしまえるものになる。蹴ってもいい程度のものだってことがそのアドバイスが真にアドバイスである証明になる。蹴ることができないアドバイスはアドバイスの格好をした命令であると。強制力のあるアドバイスはそりゃ蹴られないよね(笑)ということ。
係数と解決を秤にかけられるか。そしてアドバイスを蹴ることができるか。
蹴られないアドバイスならそもそもそれはアドバイスではない。
だからしっかりしているってことは自分、相手、問題ってことを俯瞰的によく見えているのかもしれないけど、その総合的によく見えているバランスの良さって案外問題解決に特化してみた場合損なことがある。というよりしっかりしているがために、解決された余波がどうなるかがよく見えるものだから「解決しない方がいいよ」とアドバイスすることもある。二手先三手先が読めてるだけにアドバイスは向かない。
だから解決されてその余波でしわ寄せがやってきて「あ……いかん。しまった、損しちまった」と思わず苦笑するくらいがアドバイスには向いているんじゃないかという話。
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