
・だからそれ風に言い表すとすれば、タクティクスオウガのLとCの違いというのは卑怯ゆえの美しさと美しさゆえの卑怯ということになるんじゃないかと、
人間というのは本当に醜い、自分が生きるためならば平気で人を犠牲にする。
でもそれは「悪」なのかといえば必ずしもそうは言えない。だってそれしかないんだから。人である以上そうするしかない、つまりそこにあるのは人であるということだ。
人である、人でしかないその人という存在がそれを選んで何が悪い。生きるために他者を食らって何が悪い。犠牲にして何が悪い。だってそれって人なら誰でもやっていることなわけだし、それがたまたまバルマムッサという形で現れただけであり、それだけの話でしかなく、それ以上の話ではない。つまりそれを突き詰めたところにあるのは人間存在の肯定だと言える。人というのはそもそもそういうものだよ。なんだかんだ言ったって他者を食らわなくては生きていくことすらできない。肉を食い、草を食って生きる。そして必要なら「人も食らって生きる」、そう、必要性があり、動機がある。生きる理由なんて人それぞれだし別になくてもいい。しかし人は生きなくてはならない。あくまで人の日常性、普通な日常、人の平凡さを背景にしてそれは物語られる。人が人であることは良くも悪くもそこでは肯定されている。それが「悪」だろうが「醜」かろうが、でもそれが人でしょと。
・しかし本当にじゃあバルマムッサは必要だったのかということは問われる。それはそうだ、生きるために必要だったからと言って卑怯な選択をしてその罪を相手になすりつけるなんてことが本当に必要なのか。いや、必要どころか明らかにやり過ぎではないのか。そして明らかにやりすぎなんだけど「死人に口なし」でそのまま強引に突っ切ろうとする。それってどうなのって話だし、明らかにダメでしょという話だし、そして事実明らかにダメなわけだ。そこには範囲の逸脱がある。ある一定の範囲を超えているのだ。
・その範囲とは何かといえば卑怯ゆえの美しさからの逸脱ということになる。ここに至って美しさはそうではなくなる。本質的に人が卑怯であっても、そのことを認めその上で生きることは可能なはずだった。生まれながらのものであり、人としての宿命であることを受け入れることは。そこには範囲がある。
しかしそれを背負って生きる段階でじゃあどうするか。どう生きるかということになると話が違ってくる。
「人間なんて元々卑怯な生き物なんだから、状況もあれだし、仕方ねえだろ」ということになるとそれは開き直りであり、居直りであり、正当化である。ここに至って人そのものの美しさ、それの肯定はそうではなくなり、居直り強盗化してしまうことになる。「火事場泥棒」、「盗っ人猛々しい」とはまさにこれという感じである。
この記事へのコメント
y=k
毎回楽しみにしています。
私はLルート派だったりします。
バルマムッサの虐殺も肯定派だったりします。
公爵の作戦として兵力で大きく劣るウォルスタの取るべき手段として悪くない手だなと思うのです。
ごめんなさい、嘘つきました。
だって生きていたいもん!こんな、自民族の虐殺なんて考える公爵に逆らったら、どんな酷い事されちゃうかって思ったら、はい、やります!むしろ虐殺やらせてください!って私はなります、おしっこちびっちゃいます(笑)
Lルートの虐殺に加担しないヴァイス君は組織をまとめ上げ、反旗を翻しつつもデニム君と和解、カチュアを王に据え、ヴァレリア統一。
でもってヴァイス君は言うんですよ、和解はしたけど、お前がチビっちゃったのは忘れねーから。と。
きんた
書きかけでネタ忘れてそのまま放置となってます笑熱いうちに書かないとダメですね。
ノートにも書いてるんですけどイマイチ思い出せないんですよね。
何を書こうと思ったのか笑
> y=kさん
>
> 久々に来てみたらタクティクスオウガ考察が更新されてる!
>
> 毎回楽しみにしています。
>
> 私はLルート派だったりします。
> バルマムッサの虐殺も肯定派だったりします。
> 公爵の作戦として兵力で大きく劣るウォルスタの取るべき手段として悪くない手だなと思うのです。
>
>
>
> ごめんなさい、嘘つきました。
> だって生きていたいもん!こんな、自民族の虐殺なんて考える公爵に逆らったら、どんな酷い事されちゃうかって思ったら、はい、やります!むしろ虐殺やらせてください!って私はなります、おしっこちびっちゃいます(笑)
>
> Lルートの虐殺に加担しないヴァイス君は組織をまとめ上げ、反旗を翻しつつもデニム君と和解、カチュアを王に据え、ヴァレリア統一。
> でもってヴァイス君は言うんですよ、和解はしたけど、お前がチビっちゃったのは忘れねーから。と。