air10話-2、晴子の葛藤





 そらは晴子に連れられ神社へ。
 「ここでなあ、もうすぐ祭りがあるんやでえ。
 あれから10回目の夏祭りや。今でもよう覚えとる。ひよこ売ってる前に座ってずっと話しかけとったわ。『がおー、がおー』って。あの子な、ひよこ育てたら恐竜になると思うとってん。縁日のひよこなんて買うたって育つわけあらへんやんかー。
 うちあの子の手引っ張って家に連れてこうとした。
 そしたらなあ……人に迷惑かけたらあかんって、それだけ教えこまれたような子が、その時ばっかりはうちのことジーっと見て言うんや……
 『これ、欲しいな』って……
 ごっつ済まなそうに言うねん……」


 ・これに関しては観鈴がどこかで言っていた。欲しかったのは思い出だったと。
 晴子と一緒に思い出となるような楽しいことがしたかったと。でも晴子は買ってやることができなかった。
 これ佳乃と聖でも同じようなことがあったが(その場合は風船だったが)ここに繋げることに何か意味があるのかどうかはよくわからない。


 「観鈴はな、望まれて産まれてきた子-やない。
 結婚もしとらん二人がいろんないがみ合いの中で産んでしもた子なんや……
 その娘と男を残して姉貴は死んでしもた。
 残された男は自分の娘をうちに押し付けた……」


 「ほんま苦労だらけだったでえ?
 明日にもあの男が戻ってきてこの子を連れ帰ってくれる。そう信じてどうにか暮らしとったわー。
 でもな、あの子と長い時間過ごすようになって。
 あわてんぼうでようドジするし。そんなんすぐに忘れていつも笑うとる。
 それ見てたらこっちまで笑えてきて……」


 ・押し付けられたんだから引き取りにくれば嬉しそうなものだが、そう簡単にはいかない。
 一緒に暮らしていれば愛情も湧くというもの。そうなると今度は引きはがされる方が辛い。 


 バッグから恐竜を取り出す晴子。
 溜息をつく。
 「……それでもうちはあの子の親やあらへん。
 今日にもあの男が連れに来るかもしれへん。
 そうしたら、うちはイヤでも一人の生活に戻ってまう。
 その時のために、できるだけみじめにならへんよううちはうちの生き方を守ることしかでけへんかった!
 せやから、誕生日にプレゼントかて渡したことあらへん。毎年忘れたふりや。
 今年もどうするかずっと迷っててんけどなー……」


 ・話の雲行きが怪しい。
 観鈴の心配をしていたはずが、気づけばみじめったらしく見られたくない晴子の話になっている。
 押し付けられて怒っていた晴子がなぜか一人で取り残されたくない気持ちになっている。
 結局晴子と観鈴間の問題は晴子の保身の気持ちに行きつくということか。
 距離が遠いままでプレゼントもあげない。そうすれば喜びもないけど、でも悲しむこともみじめになることもなくなる。


 ・これというのは観鈴の内面にあったものに重なる。
 友達を作りたいけど、でも作ったら悲しい思いをしてしまうことになるかもしれない。
 喜びが大きいだけ、悲しみも大きくなる。だったら「最初から何もしなければよかった……」という結論に到達することは難しくない。というよりそういう結論を持っているヤツがこうして身近にいる。損得の問題ではないけれど、得をして喜びが大きいだけ損、つまり悲しみも大きくなる。
 晴子が観鈴と親しくなろうと思うと、同時に傷つきたくないみじめになりたくないと思う。
 観鈴が友達を作ろうと思うと、その先で起こる「発作」というのは同じ形を持っている。観鈴は発作によって先手を打って関係を壊す。観鈴と往人との関係も発作によってよそよそしくなった。仲良くなると起こるのであれば離れていればいい。そういって往人は家を出ていく。こうして距離は遠くなる。距離が遠くなれば発作は起こらない。


 ・これというのは晴子も同じであって、そもそも一人で暮らしていれば何も問題がなかった。でもそこに観鈴がやってきた。その観鈴が連れ戻されるときの「痛み」というのは翼であると。それは本来なかったはずの「痛み」なんだけど、でもそこに観鈴がやってきた。それによって関係性が生まれ、それというのは具体的に言えるものは何一つないんだけど、でもないというにはあるしあるというにはあまりにもなさすぎる。その具体性が何もない抽象的な「何か」を表すものというのは「翼」ではないかと。
 それというのは恐らくは「翼」という完成形であり、そんなものあるわけないというかなり抽象的なものであって。
 でも抽象的というのであれば、人と人との関係なんてこれが「具体的」と呼べるものなんてそうそうない。友達だって親密度で120とか58とか決まっているわけでもないし、具体的といえばお金とか数値的なものにどうしても頼ることになるだろうし、その方が余程分かりやすい。逆にそういう指標を使うことなく表そうとすれば「翼」という詩的な表現になるのであって。そういう表現に頼らざるを得ない。


 走り出し恐竜を投げる晴子。
 恐竜は茂みの方へ。
 「やっぱりやめた!
 今更ほんまの家族なんて、なられへんわ!」


 場面は飛ぶ。
 家の前へ。
 そらは思う。

 「あの人も、この景色も。
 確かにどこかで見た覚えがある。
 でも……
 いつ……
 どこで……
 どうしても思い出せない……」


 ケーキを食べる二人のそばにいるそら。
 ほたるを見ている二人のそばにいるそら。
 倒れている佳乃を助ける二人を見ているそら。


 ・物語が「そら」と一緒に進むようになって明らかに何か変わっていっているなという印象。


 ・往人は「そら」となって晴子のそばでこの葛藤を見ることになる。
 それというのは「往人」として生きているうちには見ることのできないものだった。それを知ることができているということが最も違っていることの一つだと言えるだろう。何しろ佳乃やみなぎのことでずっとあちらこちらに行っており、その間ほとんど観鈴やまして晴子とは関われていないわけだから。時間、労力、知れたはずのこと、そうしたことを「そら」として体験している。
 ここで起きているのはこの今までの期間の全否定であり、往人という人の人生の否定だとも言えるかもしれない。往人ではどうしても知ることのできない世界であり、それを「力足らず」というのは違う。往人が往人である以上知ることのできない世界だった。残酷だけど、そうした余計なことをすべて削ぎ落とさねば求める結果には到達できない。往人が往人であることも、佳乃のこともみなぎのこともすべて余計なことであり。それはこの世界の「往人」に任せておけばいい。そらとして本当に重要なことを見ていかなくてはならない。


 ・つまり「往人」として見ていたこと、見てきた世界は「事実」でしかない。そこから「真実」に近づこうと思えばもっといろいろ見ていかなくてはならないことがある。体験しなくてはならないことがあると。時間や労力をじゃあどこにかけるかと言えば、最も効果的なところにかける必要がある。
 往人は往人としてたくさんの経験をし、たくさんの人助けをしてきたかもしれない、でもそれでは観鈴を助けることはできないのだ。余計なところに時間を使いすぎて、ヒントはたくさん得たが肝心の観鈴を助けることはできなかった。残り時間もなく、できることもなくなった。そうした余計なことをすべて切り捨てる。ここで求められているのはその残酷さではないかと。佳乃やみなぎを助けるならば往人は往人でよかった。ある意味ベストだったかもしれないし、他に代わりのいないまさに適任だったかもしれない。ところが恐らくはそれが祟って観鈴を助けることができない。「カラス」というのは残酷な仕打ちのようで罰のようにも見えるが、本当に助けたかったら、助けたいと思えばこうなる必要はあった。人としての「往人」ではできないし、邪魔だとさえいえる。だから佳乃やみなぎを助けたその「ベスト」が観鈴の場合どのようにして成り立つかを考えると恐らくはこれしかなかった。





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