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セミの鳴き声。
青い空。
「ここは……どこ。
なぜぼくはこんなところにいるんだろう。
そうだ。
ついさっきまでぼくは誰かのそばにいた……
とても大切な誰かのそばに……」
観鈴の前で新しい人形劇をしている往人。
「……ダメだ。
頭がぼんやりして思い出せない……」
くぐもった人間の声が遠くから聞こえる。
人間の声ということはわかる、でもそれをきちんと聞き取ることは難しい。
明らかな壁。
孤独。
いや、孤立の方が正しいかもしれない。
そこへ近づいてくる足音。
「どこから来たの?
お母さんは?」
「お母さん……」
「にゃはは。かわいいー。
うーん、ほっといて行っちゃっていいのかな……
よーし、じゃあちょっと歩いて、振り向いて付いてこなかったらここでお別れ」
観鈴の後をついて行くカラス。
「わっ、ついてくる……」
駆け寄る。
「私と一緒にいくー?」
うなずく。
肩に乗る。
「よーい、ドン!」
・なぜカラスに、というところだが。
あの時点で往人たちの選択肢は4つに絞られていた。
①一緒に死ぬ
②一緒に生きる
③観鈴が死ぬ
④往人が死ぬ
①については「二人とも助からない」という母親と往人の言葉以外にないので、あくまで想定という可能性もあり得る。
②についてはそれができれば誰も苦労しねえよ(笑)という感じなのであの時点では除外されると考えていい。
③については?
この③の形というのは母の言葉をもとにして成り立っていると考えていい。
本当はこのままでは二人とも助からない、だけど「その子」はすごく強かった。だから母親は助かったけど、その子は死んでしまった。
だとすれば、往人の想定では「俺が助かる道は一応あるんだな」ということを一応くみ取っていた可能性が高い。その時点では助からないのは観鈴だけだった。そして往人には助かる道は一応残されていた。だから逃げた。それの意味するところは母の言葉の意味をきちんと把握し、ここで俺が逃げれば俺は助かるんだなと理解していたことを意味している。観鈴は死ぬけど俺は助かる。そもそも二人とも死んだら損するだけだ、というのはいかにも往人らしい思考でもある。
ところが往人は戻ってくる。
でももう時間切れで、観鈴は助からない。そこで往人の願いに人形に込められた願いが共鳴する。
その結果死んだのは④、つまり往人だったということになる。
その子が死んだから母親は助かった。
全く同じで、往人が死んだから観鈴は助かったのである。
この時間軸に話が戻ることはもうない。この9話にあるように、願いが叶って観鈴と出会ったその日に往人は戻ってしまった。そして人生はそこからやり直すということになる。
・じゃあこの元の時間軸の観鈴は? ということになる。
その世界では往人は死んでしまった。いや、正確には存在が消えた。意味は変わらないかもしれないがとにかくもう往人はこの世界にいない。願いが叶って出会ったその日に戻っているわけだから。
つまり④の世界が展開されているわけであり、往人が死んでいるわけだから観鈴は助かった。ある意味でのハッピーエンドを迎えることができた。何しろ「その子を助けてあげて欲しいの」という母の言葉を達成できたわけだから。その1000年にもわたる願いの果てに、観鈴を救えた。めでたしめでたしではないか。
でもそうはならない。
観鈴は確かに命は救われた。だけど往人はその世界にはもういない。
観鈴は確かに生きている、でもそれに一体何の意味が? それは「死んでいない」というだけの意味しかない。往人のいない世界に取り残された観鈴の地獄はそこから始まったと言っていい。
つまり、観鈴は救われていない。むしろ永遠の地獄に放って終わっただけとも言える。往人の願いは叶ったかもしれないがそれはそこだけ見れば苦肉の策であって、苦肉の策でしかない。本当はもっとより良い数々の選択肢があっただろうものをよりによって往人がいなくなった、それは解決ではなく対処でしかない。じゃあ観鈴が死のうと往人が死のうと代わりはないのか。いや、それは違う。恐らくこの1000年間、「その子が死に、私は助かった」という形以外の形をとれたことがそれほどあっただろうか。死にかけている「その子」を前にして代わりに私が死にますといった例がどれほどあったろうか。まああった可能性も全否定はできないけど、恐らく往人のそれというのはこの流れの中に初めてそれを導入できた例なんだろうなと。
でもそうしてみて気づいたのは、やっぱり地獄だったねということであって。もはやそれ以上を語る必要はない。結局のところ彼女は救われなかったということに変わりはないんだから。
命が救われない状況は回避できただろう、しかし彼女の心は死んでしまった。
・母親はなぜ往人に託した直後に消えたのだろう。そんなことは現実的にはあり得ない(笑)と言ってしまえば終わりなんだけど、「その子」を助けられなかった時点で往人を育てる以外の人生の意味は喪失していたんじゃないかと。父親はどうなのか一切出てこないけど。
つまり、あの母親の姿は「心の抜け殻」だったんじゃないかと。確かに生きている、いや生きてはいる、命だけはある……でも「その子」を助けられなかった時点で心は死んでしまっていた。生きているのは半分だけだった。それをリアルに言えば「託す」ことによって残っていた身体もその時朽ちたということなのではと。思いを託したということの反面の意味は、託した時点で朽ちた、だからこそあの光があったのではないか。
・この時点でこの世界では往人がカラスになることがわかった。別にそれは輪廻転生とかそういう意味ではないとは思うが、まあ一応そうもなれるんだなと。
ではポテトとは何なのか。恐らく佳乃の母親なんじゃないかなと。断言はできないけど。
願いをかなえるための力もないのになれるのか? と言われそうだけど、この可能性というか方向性をこの話の中では決して否定できない。思いは形になる。敬介の観鈴の誕生日を祝いたい気持ちがケーキとなった。それはたまたま往人が受け取り、観鈴のところへと伝わっていった。思いがある、それが次に繋がる、そして現実のものとなる流れがある。
母親は死んだ、でも心配で心配でと思っていたら犬になっていた。それで佳乃のところへとやってきて「ポテト」となった。そういう可能性はあるかなと。
・じゃあ往人の母親だって何かになっているだろうか?
母は「力になりたい」という方向性を示していた。そう、だから具体的な何か、犬とかカラスじゃなくて母親の場合は「力」になった、その曖昧で抽象的なものになった。
それを思えばこの世界で死んでいるヤツなんていない。生は必ず別の形へと繋がる。そう、それはまるで生きるということもあるエネルギーの一様態に過ぎないかのようであり。願いは脈々と続いている。表に出ることもあれば地下に沈むことだってある。生死というのはエネルギーのある状態を表したものでしかない。エネルギーがある限りは、それというのはいつかどこかで花開くこともあり得る。往人が本当に困り果てた時に表れ出たように。
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