6話
「……いい加減長居しすぎたからな。潮時だと思うんだ」
「そう……ですか……」
「一緒に来ないか、遠野!」
「え?」
「お前に見せてやりたいんだよ、外の世界をな。
夢なんかじゃない、本当の世界を」
「世界を……」
「一緒に行こうぜ。世界を見つけに、さ」
準備はできたものの、明らかに覇気がない。
心地よい「夢の世界」から引きはがされ、どうなるとも分からない世界を行くことになる。そこにある不安や戸惑い、なによりもこれ以上の快適な世界など他にあるだろうかという思い。
引きこもっていれば一生傷つくことはない。それどころかどこよりも快適で、何一つ不自由のない世界に浸り続けることができる。みなぎにとって旅に出ることは、外界に出ることは苦痛でしかない。
しかしここには往人やみちるの優しさがある。すなわち引きこもっている世界ではなく外界に出ても外界もやはりいいものだと。世界はいいものだと、そういう風にもっていきたい流れがある。ここで希望を持てたとしたら、世界もまだまだいいものだと思えたとしたら……そういう期待がある。
「国崎さん、町を出る前にみちるに一言……」
「いいからついて来い」
「……」
「やれやれ。やっと着いた」
みなぎはこの道を行くことがここに繋がることを全く予期していなかったかのよう。
「家」は、みなぎの「居場所」は今は駅前だということを別の形で象徴しているか。
ふと顔を上げたら、自分の家の前まで来ていた。
「どうして……」
「みちるが言ってたぞ。
寂しそうなみなぎは見たくないって」
「みちるが……」
「これからどうするか、後は自分の意志で決めろよ。なんなら、本当にオレと一緒に旅に出てもいい。連れてってやるよ。どこか他の場所へ。
選択は自由だ。お前の、遠野みなぎ自身の意志で決めるんだ」
みちるが気付いていたのは、みなぎの快適で心地いい場所、その居場所でさえ後ろ暗いものだったと。なんだかんだ言ったって家を捨てて母親を見捨ててきているわけだから。その先にある快適さとか居心地の良さが全く後ろ暗くないほどみなぎは過去を完全に切り捨てられてはいない。そういうタイプの人間ではないし、10:0でさっと切り替えられるタイプでもない。
つまりみなぎ自身の「心の闇」のようなものがあり、罪悪感や後ろ暗い思いがあり、それというのは日を追うごとに強くなっていたということを意味してはいないか。それをみちるはわかっていた、しかしみなぎ自身は決してわかってはいなかった。痛みや苦しみを鎮める、麻痺させる、その次はさらに強い痛みがやってくる、それを麻痺させる……それを繰り返してみなぎの心は朽ちていっていた。まるで墓場で宴会があり、そこで枇杷を引いていた耳なし芳一のように、みなぎにとって「居場所」が駅前である状態というのは決して健全なものではなかった。それを尊いものだと感じる心はわからないでもない、往人にとってはあまり違和感がなかったかもしれないが、考えてみれば高校生くらいの女の子が駅で寝泊まりする情景と言うのは極めて異常なものだったに違いないし、みちるはその違和感に恐らくは気づいていた。その心の闇のようなものも含めて。
少し迷いつつも家に足を向けるみなぎ。
庭にいる母親。花を切る音に驚くみなぎ。
庭に行ってみると、花壇で花を切って集めている母親の姿。
「お母さん……」
ハッとする母親。
見るとみなぎが立っている。
近寄ってみる。手を取る。
過去の情景がよみがえってくる。
頬に手をやる。涙があふれてくる。
「みなぎ……」
「お母さん……」
抱きしめ合う二人。
その場を去る往人。
時系列で並べなおすと以下のようになる。
・みなぎはお父さん子で、母親はお母さん子になるといいなあと次女であるみちるを待望していたが流産してしまった。
・その現実を受け入れることができなくなり、みなぎは母の中で「みちる」になった。
・その状態が最近変化し、「とある夢」をみた。それによって次女が生きているという幻想は消えたが同時にみなぎの存在も消えた。そこでみなぎの「みちる」としての役割は終わった。
・家出をしていたが、帰ってみると母はみなぎのことを思い出し、その存在を受け入れた。
さらに言えば
①「みちる」が死んだことを受け入れることができないという現実の否認→みちるは生きているという幻想から、みなぎのことをみちるだと思うようになる。
②①は幻想だったと気づいた。現実には「みちる」はいなかった→同時にみなぎの存在も消えてしまった。
③みなぎを見た時に、みなぎとの過去のことを思い出した。
という変化がここにはあったということになる。
否認→気づき=忘却→思いだすという過程がここにはあることになる。
・「私の翼はもう、飛ぶことを忘れてしまった……
私はもう、羽ばたく真似だけを繰り返してきましたから。
飛べない翼に、意味はあるんでしょうか……?」
この言葉の意味とは。
これというのは、つまり妹の「みちる」が望まれていた、みなぎは望まれていなかったのでみなぎはその母親の期待に合わせるために「みちる」としてずっと長いこと生きていたことを指しているものと考えられる。本当はみちるじゃないけどみちるとして生きてきた。人の期待に沿って合わせて生きてきてしまった。その結果自分らしく生きることを忘れてしまった。自分とはなんだったのか、みなぎはどういう自分だったのかを忘れてしまった。
本当は「飛べて」いた。なのに母親の期待に沿うことはつまり羽ばたく真似だった。そこでは飛べないことが求められていた。そうしているうちに本当は飛べたはずなのに飛ぶことを忘れてしまった。空気を読むこと、優しさ、母への思いやり、そうしたことがみなぎという人間を低い天井で押し殺し続けるようなことになってしまった。
・詳しくはふれられていないが、父親はどうだったのか。みちるを流産するまでは普通の家庭だったわけだからそこまでは問題はなかったのだろう。しかしみちるが流産し、みなぎが「みちる」となり、おかしくなってしまった妻を見て去ったと考えられる。「みちる」として生きるみなぎを見てかわいそうだ、俺が引き取ろうとも考えることなく離婚して別の町に行き、そして再婚して幸せに暮らしているんだと。ここにあるものというのは非常に冷たくはないかと。つまり家庭がおかしくなったからリセットしよう、俺は別の町で別の女と幸せに暮らすんだと決めたわけだ。
百歩譲ってみなぎが「お母さんが可哀そうだ」とその優しさから拒否した可能性もあるが、しかしそれにしてもかなり薄情ではないかと思える。みちるが死に、一番誰もが辛いはずの時期によりによって去っていくことを選ぶというのは。協力することを選ばなかったというのは。
父親のセリフはこれしかない。
「みなぎ。星にはね、その一つ一つに神様が棲んでいて私たちを見守っていてくれるんだよ。
そして星を見つめる人の心をきれいにしてくれるんだ」
そしてこの直後に折り合いが悪くなって家を出ていったのだと。このセリフはいかにもおとぎ話チックに語られているが、その実けっこうヤバイ真意を表してはいないだろうか。
「俺はもう家を出ていくけど、もう何もしてやれないけど、でも神様はお前たちを見守っててくれるはずだから」見捨てた父のことを恨みに思ったりすることも疑ったりイヤな感情を持つこともあったろうが、おそらくみなぎは星を見ることでそうした感情をリセットしていた。そうなるとつまり一番大変な時期に去ることを決意して、当然そのことをいつか恨みに思うだろうがその時に備えて「マイナスな感情リセット装置」を作って出ていったのではないかと。
そう考えるとなぜみなぎが一人で天文部をやっていたかの理由もわかる。マイナスな感情が浮かんだ時に、その感情を消すために星を見ることが必要だったからだ。その感情を「神様がきれいにしてくれる」ことを信じて。こうしてまんまと後腐れなく父親は去ることに成功した。その効果たるや全く絶大だと言わざるを得ない。恐らくは10年前後も続いていたのだから。
・でもそれは本当に続いていたのか?
そもそもみなぎは本当にそれを頭から信じていただろうか?
本当に「神様」がいて「心をきれいにしてくれること」をみなぎは願っていただろうか?
そして現にきれいさっぱりになって心機一転して日々を頑張っていたのだろうか?
望遠鏡をのぞき込んだら毎日リセットできました、というくらいに話は簡単だろうか?
普通に考えてそれはあり得ない。
となると、みなぎの「羽ばたく」ことの意味はもう一つあると考えられるだろう。
すなわち父親に対する激怒であり、よくもよりによって一番大変な時に、私と母とを見捨てて逃げやがったなということではなかったろうか。
普通怒るでしょ、当然怒るべき場面でしょという場面で見捨てて逃げたことに対するまっとうな怒りがある。みなぎらしくない感情だろうか、いやみなぎのその感情は摘み取られていた。そのまるでマグマのような鬱屈とした感情は、泣きながら往人に語っていた時の不気味な夕焼けの色によって表現されていた。
父親に対するとんでもない怒りがある、でもそれを表すことは非常に難しい。怒り方を忘れたみなぎにとってそれをどう表したらいいか怒り方がわからないのだ。感情はとぐろを巻いているが、しかしそれ以上のことはできない。
これというのがもう一つの「羽ばたき方を忘れた」意味ではないだろうか。
羽ばたく真似というのはその怒り=望遠鏡をのぞき込むことであって、それこそが羽ばたく真似を続けてきたということの意味ではないろうかと。
こうして父親によって怒り方を摘み取られ、さらには母親の期待に沿って「みちる」として生きてきてしまった。こうした意味での「羽ばたき」の二重性がここにはあるのではないかと。
それを思えば、母親は単にみなぎを思い出したから抱きしめたのではない。
恐らくはその二重性、一番大切な時にこそいるべき父親が家を去り、残され、母親をみなぎ一人で支えなくてはならなくなったこと、そして自分の負担をすべて背負い、そして期待に沿って「みちる」として生きてきた。
孤独だったね、長い間大変だったねと言う母親の思いがそこにある。
そしてそこに思いを馳せることなしにはこの場面と言うのは成り立たないのではないかと。もしここにこの場面に感動を読み取るのだとすれば、それは互いの理解の先にあるものであり誤解とかすれ違い、あるいは思い出したよ⇔よかったねというだけの関係性では決して成り立たないのではないはずであるし、また成り立たないべきだと考える。
それというのはつまりみなぎの真の孤独が解消されていないということを意味するものであるから。
この記事へのコメント