air5話-2、往人の法術と、みなぎの「空」






 ・往人は人形劇をして、子どもたちは喜んで、そして去って行く。これが意味するのは往人のやってる人形劇と、そしてその人形を動かしている「法術」というのはプライスレスだ、ということではないか。本来価値が付けられないし、付けようがないものなんだと。貨幣による交換が不可能なものであり、その「法術」を扱えるということに往人自身ものすごい誇りを感じているのではないか。実際往人の不遜な様子と誰に対してもずけずけとものを言う態度は人から反感を持たれることもあるわけだが、しかしそれを裏付けているのは往人が受け継いだその法術に対する往人自身の絶対的な感動と尊崇とを表していないか。

 「こら! おい! お代を置いてけ!」とバカにした子どもたちには言う。でもそれは金を払えというよりは、バカにしたから仕返しとしてこっちも幾らかの見返りを貰わなければ気が済まないという気持ちではないかと。つまりは慰謝料である。「俺の心を傷つけ、俺の誇りとするものを傷つけた慰謝料を置いていけ」と往人は本来言いたいのではないか。それというのは往人の心の痛みであり、傷ついた心を癒やすために必要な対価であり、それを受け取ることに何ら躊躇う必要はない。

 しかし本当にその人形劇を見た人が心からの感動を受けた時にではカネで例えば100円と示されたら? 俺の人形劇は、そして法術はそんなに安っぽくない! と突っぱねただろうか?

 恐らくそれも違っていて、本当にその人形劇とつまり法術の凄さを認め、見た子どもができる限り精一杯の評価をしてくれる、そのことに対して喜びを感じはしても恨みに思ったりはしないのではないかと。



 ・「背が高いということはそれだけ空に近い」ということをみなぎは言う。

 「空」は、佳乃の話ではどう転んでも「生と死」を意味するものだった。それは直接的に「死ぬ」というか、間接的にやんわりと「お母さんのところへ行く」と言うかの違いでしかなかった。それは全然違うことではあるが同じ形を取って表される。そのギリギリの狭間であり、境界線上、あるいはグレーゾーンに佳乃はいた。

 生と死というのはもっと概念的に言えばAとBという違った要素があり、そしてその間に明確な線、あるいは幅を持った領域としての境界であるグレーゾーンを持ち、そうした形を示してはいないかと。

 みなぎの話は、生と死という話として解釈するにはちょっと難しい。佳乃のようにちょっと何かが起きたから境界を死の側に触れる……という話ではないように思える。しかしこの図式、つまりAとBという領域を線あるいはグレーゾーンで分けてそこにみなぎがいるという形としては受け取ることが可能なのではないか。















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