「人を救う」ということ
人を救うなんて言うのは容易くまた美しいのだが、これを現実に行うことがいかに難しいか。
例えば、穴に50kgの大人が落っこちて上がれなくてもがいているとする。それを助けなければとやってきた男は、50kgを引っ張りあげるためには50kg上げられる力があればいい、というものではない。それはそのぶら下がっている男の手を掴むことはできるかもしれないが、引き上げることはできない。この引き上げるということを考慮に入れると、50kg+それを引き上げるだけの力ということになり、それで初めて引き上げて救出することが可能になるといえる。これは例えば10万円の借金があるからといって大変だ! オレが10万円渡そう、といって渡せば解決にならないのとよく似ている。そこで10万円ならその10万円はあるかも知れない、でもそれは最低条件であり、最低条件でしかなく、家賃だ食費だそうした諸々の条件を考慮すれば助けたはいいが詰む結果となりかねない。そうなると助けたはずがまさに共倒れとなりかねない。
そんなバカな。現実的には5万で分割して助けるとかあるだろと言われるかも知れない。実際そうだろうし、そういうような似た形を取るに違いない。助け方は多種多様だと思うし、それでいいと思う。要は助けるということは正義感で突っ走ってカンタンに助けられるというほど甘いものではないということであり、一筋縄でいくほど生易しくはないということだ。
・更に厄介なことには、そのぶら下がっている男は泥棒かも知れない。助けてくれ、と言われて引き上げようとすれば手を取ってぶん投げ、助けにきたヤツを穴に叩き落とすかも知れない。
さらにはそいつを踏み台として利用し、上に上がるかも知れない。
さらにはそいつの財布まで頂いていくことになるかもしれない。
さらには、「大変だ! 泥棒が穴に落ちてるぞ!」と近隣に触回るかも知れない。これによって何がもたらされるか。泥棒という男はその存在でマイナス、助けにきた男はその正義感でプラスだと言えるかも知れない。
ところがその助けにきた男は穴に叩き込まれた。そこでマイナスが発生する。さらには踏み台となり泥棒は上へと上がる。泥棒に力を与えた意味でさらにマイナスは高まる。さらには財布まで奪われてさらに余罪を与えてしまった。こうしてマイナスはさらに高まる。
さらには、「穴に泥棒が落ちてるぞ」というニセ情報によって泥棒はうまく逃げおおせ、正義感に富んだ男は濡れ衣を着せられ村八分とされかねないということになる。
こうしてマイナスは極まることになる。単なるボヤで済んだはずの火で一人火だるまになるようなものである。そしてさらには泥棒は大手を振ってとんずらときた日には、こいつは正義感を丸々使ってやりたかったことは何か、泥棒を人生丸々使って助けたかったんじゃないかと思われるほどである。こんなバカなことがあっていいのかと思われるが、まあ私が見聞きしてきた範囲だとこれは決して珍しい話ではないように思われる。
正義感が下手に絡んだせいで事態が無意味になる……ならまだいい。逆効果も甚だしいといえる。
・じゃあこれから何が言えるのかということになる。
「助けてくれ」
→「あ! 助けないと」という場合は、助けないのが正しいということである。え? 完全に助けないのかい?見捨てろってのかい? と思われると思うが、そうではない。
例えば、電話して消防を呼ぶとか警察を呼ぶとかいろいろとやりようはあるはずである。これが何かといえば、助けるということは直接的ではダメだということだ。
人を助けるということは、まず間接的であることを旨とすべしということだ。
間接的になんとか助けられる方法はないかと一旦模索し、あ、ちょっとないなと思いそして最悪の事態が全くなさそうであれば、手を出して見る、あるいはロープを垂らす。そうしたやり方が望ましい。
・少し話は違うが、例えば人が轢かれて心肺停止です、となったとする。大変だ!と真っ先に駆けつけて教本通りにすすめていき、AEDだ人工呼吸だ、というのは人としては正しい。でもここも重要なのはまずは間接的に助けるということだ。
看護師はいないか、医者はいないかをまず尋ねる。そこでいればその人に委ねるというのが正しい。下手に知っているからといって率先して人工呼吸を行う、なんてやったらエライ目にあいかねない。
成功したならともかく、失敗したとすれば? 医療に携わる専門家でもない者が一個人が人助けをする。それは美談だが、もしも失敗したとすれば遺族の感情はどうなる。
医者がやってくれた、看護師がやってくれた、それでダメだったら仕方ないと思えるだろうが、ずぶの素人がちょっと聞きかじったからといってやりました、では心象が全然違う。しかも個人である。
よくやってくれました、と言われはするかもしれないが、2日経ち3日経てばあいつじゃなければ助かったんじゃないか? と思われかねない。いやそれどころかあいつのせいで死んだんじゃないか、いやあいつが殺したんだ、とすら言われかねない。
人の心はそれくらい変わる。今日の感動は明日には怨恨になりかねない。そのくらい人の心は変わるものだという前提は絶対に必要だ。
その意味では、スマホでその場を撮影するなんてのは確かに非難されることが多い昨今だが、この効果というのは決してそう悪くばかりは言えないんじゃないかと思える。そりゃ撮るだけ撮ってさいならではダメだろうが、もしもの時の状況証拠になり得る。
「ああ、あの人は素人だったかもしれないけど、きちんと手順を踏んでやってたんだ」と誰かを救うことになるかもしれない。
まあ、それでも次の日には移ろうというのが人の心なわけだが……(笑)
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