ということで映画のニキータを見てみたという。
レオンの一応「前作」的な立ち位置に当たるということで、レオンを深掘りするためにも避けては通れないと思っていたのだけど。
まあ~あまりおもしろくなかった。ストーリーが破綻しているんじゃないか? と思える点が多々あった。そして映画を見ながらあれ? 今どういう状態? 戸惑いつつ、ああ時間が一気に流れたんだなとようやく気付くと。そういう没入しにくさというのが多かった。主人公もすぐにキレる人物で、どうしてこうすぐにキレるのかなと。殴るし撃つし噛みつくしと手のつけようのない人物で、ある意味では教育学の「アマラとカマラ」みたいな、人は教育によって人となるのだというような話を下地としているんだろうなあとは思ったけど、それにしたってもうちょっとやりようはありそうなものだと思えた。
プラスに見たら見る者が膨らませる余地、解釈を入れられる余地というのを多く入れてあるというのは面白い工夫なのかも知れない。この場面はオレはこう思うというのもあれば、私はこう思うというのもあっていいのかもしれない。でもマイナスに見たらガバガバというか、ストーリーの崩壊なんじゃないかと。多様というと聞こえはいいけどこれはわからんの方が先に来るんじゃないか。
まあそういう問題のある人物が愛によって人間らしさに目覚めていくという成長物語……といえば正道的な感じで、ベタな感じかなあ。そうみると真新しさというものには欠けるし、そこから踏み外さない意味ではそれこそよくある話にも見える。そのよくある話が破綻したストーリーに支えられているとすれば、ちょっと救いようがないなと。もうちょっと展開にやりようというものはあったんではないかと思える。
レオンとのつながりということでは結構重要だなとは思える。麻薬によって蝕まれる人々の存在の示唆。マチルダが「麻薬は女も子どもも殺すわ」と焼却していたけど、確かにヤクが切れたから盗もうとして親父の店に深夜にみんなで入ってヤクを盗もう、なんていうくだりは心底救いがないなと思えた。マチルダの一事を見て十を知るような。ヤクの先にたくさんの不幸があることを見通すような、そういう賢さというものをあれは示唆していたんだなあと思えた。
まあとはいえニキータは全然見る必要はないと思うし、まして絶対に見なくてはならない作品という感じは全然受けなかった。はっきり言って不必要だなと。レオンを膨らます意味でも不要だし、これも印象だけどあれほど破綻したストーリーがあったからこそきちんとわかりやすく万人受けするようなストーリーを持たせなくちゃやっぱダメだよねというような反省があってレオンという作品が生まれたような気がする。
まあせっかくフランス語出てきたので仏語講座でもやることにします。でも字幕ないのでこりゃ苦労するなと思いつつ、しかもそこで仏語を覚えたとしてもそれを使って仏語でニキータを見てどうなるという希望もない……(笑)ニュアンスがよくわかったとしてもその先がないという(笑)
どうしようかな。
あまりにもいいストーリーだとネタバレとかになるのでどうしようかと思っていたけど、あまりにもよくないストーリーだとそれはそれで学ぶだけの価値がないという新しい問題が起こるもんだなと思いながら、まあだらだらと仏語見ていきましょうかね。
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