菜根譚48、無技巧の幸福と、技巧の災い(袁譚、袁煕、袁尚の話)






 「貞潔な士には幸福を求めようとするひたすらな心はない。天は即ちその無心であるところに付いてその衷心(ちゅうしん、真心)に答えるのである。
 險人(けんじん、險は険の略字。険しい人、厳しい人の意味)は災いを避けようとしてはかりごとを巡らせる。天は即ちその意図を汲み取って災いを下すのである。
 見よ、天の意志は何と神妙であり、人の智巧のなんと効果の薄いことか」


 ・いかにも「策士策に溺れる」を言いたいかのような話が伝わってくる話ですね(笑)
 これについて言えば、例えば諸葛亮と司馬懿の話なんかはすぐ出てきます。
 諸葛亮は例えば撤退時に竈(かまど)の数を大幅に増やしていく、兵士がいない時に空城の計によって城門を開け放して司馬懿を出迎える、諸葛亮死後の撤退時も自分そっくりの人形を用意して諸葛亮死去の噂は嘘だったのだと思わせるなどの手を用いて、司馬懿の頭の良さを利用して作戦を有利に展開したりしています。これを「死せる孔明生ける仲達を走らす」といったりします。
 死せる孔明生ける仲達を走らす

 原文では「死諸葛走生仲達」でありますが、読み方がしっくりきたのが「孔明」だったので、日本語では孔明の方が定着したようです。
 死諸葛走生仲達
 Sǐ zhūgé zǒu shēng zhòng dá(スーチョーグァ ザオ シュンチョンダ)



 ・ということでこれで終わりになるといえばなるんですが、せっかくなんで敢えて袁紹サイドを見て行こうかなと思っています(笑)第三段ですね。
 ここからは趣味であり余談の範囲となります(笑)

 第一弾、田豊、沮授、郭図の考察

 第二弾、逢紀、許攸、審配らと見る袁紹陣営


 まあこれも結論は既にかなり決まっていて、郭図(かくと)や逢紀(ほうき)といった知将が自分の地位向上のために田豊などのライバルをその得意の謀略によって次々と失脚させるんですが、それによって実際は袁紹の勢力そのものを大きく削ぐことによって袁紹軍は分裂し、対立し合い、そして互いに攻め合うんですけど、それによって国力の落ちたところを曹操によって併呑されてしまうと。大まかに言えばそういう感じになります。
 賢いといえば、ライバルが失脚すれば自分の地位が上がるという一見当たり前な賢さというのはありますよね。
 でもそれをよしとして推し進めていけばどうなるかといえば、その勢力そのものを食いつぶしてしまうことになってしまう。この現象をもっと細かく突き詰めておきたいなと思っています。


 ・袁紹には三人の息子がいました。
 上から袁譚、袁煕、袁尚(えんたん、えんき、えんしょう)ですね。



 袁紹は後継者を指名していなかったので、この三人は我こそは後継者と争い合うことになります。
 そして
 「袁紹軍幕僚の郭図辛評は袁譚を後継者に推し、衆目も年長の袁譚支持であったと記されている。しかし同幕僚であった逢紀審配は、郭図・辛評との個人的対立などもあり、袁紹の生前の寵愛を理由に袁尚を後継者として強硬に擁立した。また、審配らは袁紹の遺言を偽造したと記されている」
 とwikipediaにありますね。


 この一文だけでいかに袁紹陣営がドロドロしているかがわかります(笑)
 審配ってどっかで高潔で剛直な士だとか見かけたような気がしていましたが、なんと袁紹の遺書を偽造してまで「袁紹様は生前三男の袁尚様をご寵愛しておられ、後継者は袁尚様にと仰せだ」と言おうとしたんですねえ(笑)
 どこが高潔なんだと言いたくもなりますが、高潔も過ぎればこういうことも起こったりもするのでしょう。


 ・「骨肉の内紛を見て、同年9月に曹操が侵攻して来た。袁尚は袁譚に命じてこれを迎撃させたが、袁譚が増援を頼んでも、袁尚は増援を送らなかった。このため曹操軍に大敗し怒った袁譚は、袁尚が自分の目付役として付けていた逢紀を殺害した」
 こうして逢紀は表舞台から姿を消します。なぜ袁尚派で袁尚推しの逢紀がこの時袁譚のそばにいたのかはわかりませんが、とりあえず目付け役としていたようです。
 これによって長男袁譚と三男袁尚の仲は決裂します。


 とりあえず曹操がきてたので協力して追い払いますが、いなくなった後は二人で争い合い、袁尚が強かったので追い詰められた袁譚は曹操と手を結ぶことを決めると。
 最も憎い敵であるはずの曹操と手を結んででも三男の袁尚を滅ぼしたい。
 この時の袁譚はつまり曹操<袁尚となっているわけですから、骨肉の争いは悲劇だなあと思いますね。
 こうして曹操の力を借りて袁尚を追い払うことになります。


 ・再度袁尚は袁譚を攻めますが、曹操にその隙を衝かれます。
 鄴(ぎょう)を守っていた審配でしたが、食糧攻めと水攻めによって城は陥落し、審配は捕まり最期を迎えます。


 こうして攻めるつもりが逆に撃破された袁尚は兄の袁煕の元に逃げ込みます。
 袁煕はこれを受け入れますが、家臣たちは違うと。
 おいおい、あれだけ長男の袁譚に憎まれ、しかも曹操と敵対した袁尚を受け入れるのかよとなります。
 袁煕は兄弟間の争いとか興味なしという感じでしたが、要するに袁尚を受け入れるということはその争いに足を一歩踏み入れることになりますし、「あの袁尚を助けやがった」ということで曹操から睨まれる道を選んだということになります。
 こうして大量の家臣が袁煕からは離反していき、仕方ないので袁煕は袁尚と共に烏桓(うがん)の地へと逃れることになります。


 一方袁譚は、いつもやられていた袁尚に逆襲して一矢報いることができてご満悦でしたが、曹操に「盟約違反」と言われて攻められ、滅ぼされます。


 ・こうして白狼山の戦いを迎えます。

 「曹操は袁煕と袁尚の討伐を考えていたが、諸将たちはみな言った。「袁尚らが虜(異民族に対する蔑称)どもに身を寄せたまでのことです。奴らが袁尚を利用することはあっても親しくなることはなく、袁尚らのために我々と争うつもりはないでしょう。いま深く侵入して彼らを征討するならば、劉備はきっと劉表を説得して許を襲撃させるでしょう。万一変事が起こったならば取り返しのつかないことになります。」と。
 た郭嘉だけは、「蛮族は自分達が遠隔の地にいるのを良いことに防備を設けていないでしょう。それにつけこんで不意をつけば、容易に壊滅できます。これを放置したまま南征したりすれば、袁紹に恩を受けた烏丸どもは兵を集めこれを平定するのは難しくなります。劉表劉備を使いこなす器量はありません。国中を空にして北方遠征に向かおうとも、心配することはありません。」と言い、曹操の懸念をうち払った」


 郭嘉は袁尚勢力を滅ぼした後は南下政策だと考えていたため、袁一族をそのままにすることはできないと考えていたと。
 こうして烏桓は曹操によって打ち破られ、袁煕と袁尚は公孫康の元へと逃れます。
 しかしこの二人がいては我々もいずれ曹操に狙われるではないかと恐れた公孫康によって二人は斬られます。
 そして二人の首を曹操に送った公孫康でしたが、曹操はこれを大変喜んだため「曹操から襄平侯・左将軍に任命された」ようです。



 ・ということでここまでで袁紹の息子三兄弟を見てきました。
 郭図らによる「策士策に溺れる」ということの結果を見ようと思っていましたが、それだけでなくもうひとつの事実を見ることができたように思います。
 袁煕は曹操に睨まれている袁尚を助けたことによって、味方を大きく減らしました。確かにそれは人の道に沿っており、苦境に陥った兄弟を助けるという尊いものだといえるでしょうが、これによって袁煕は曹操から目を付けられることとなったわけです。
 そして袁煕・袁尚がやってきた公孫康でしたが、公孫康はこれでは曹操に次にやられるのはこのオレだということで、早々に切ってしまいます。これによって曹操から睨まれるどころか大喜びされ、官位も与えられることとなります。


 要するに「長い物に巻かれろ」ってことかとなりそうな話の成り行きですが。いかにもこれだと救いがないような話になってしまうのですけども。人間味の厚い袁煕ではなく、最終的に保身に走った公孫康が報われるというのでは。


 ・袁煕の夫人は甄夫人(しんふじん)という人でしたが、曹操が曹丕に譲ります。
 そして甄夫人は子供を産み、その子は曹叡(そうえい)となり曹丕に次いで魏の二代目皇帝となっていくわけですが。
 この曹叡の親は、実は曹丕ではなく袁煕じゃないかという話があります。
 様々な説が飛び交っており、大部分否定はされていますが、かといって確実な根拠に基づいて否定されているわけではありません。真相は闇の中なんですが。
 苛烈な手段によって中国の2/3を攻略した曹操でしたが、司馬懿による後世の粛清を待つことすらなくこうした疑惑によって曹一族が蝕まれている、そして決して完全に否定することができないというのは、何とも言えない皮肉なものがあるなと思わずにはいられません。


 似たような話は他にもあり、張飛の奥さんは魏の功臣である夏侯淵の血族だという話もあります。
 こうして生まれた張飛の娘は劉禅の奥さんになっており、その縁で後年夏侯覇(かこうは)が司馬懿の誅殺を免れて蜀にやってきた時には大変な厚遇を受けることになります。
 この話は不幸中の幸いみたいな話ですけども。
 曹一族にまつわる話が逆に幸福の中の不幸や闇を暗ににおわせているように思えてなりません。





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