菜根譚46、不遇を耐え忍ぶ(晋の驪姫、申生、重耳、夷吾の話)






 「暇なときに放置し見過ごさなければ、忙しい時に活きる。
 静かな時に空っぽになっていなければ、いざという時に活きる。
 人の見ていないところで偽り隠すことがなければ、人のいるところで活きる」


 ・これ要するにメリハリということになると思います。
 横山光輝の三国志では、徐州を守る張飛が「弓もずっと張ったままでは弛んでしまうからな」と言って部下に酒を振る舞うシーンがありますが、これって結構リアルに生きる知恵として重要だと思います。
 少なくともずっと常に弓を張っていろという話ではないと思いますので、そのように解釈していこうかなと。


 緊張の糸も張ったままでは疲れてしまうと。疲れきってしまって、例えば敵襲とか火事の時に疲れ果てていて何もできない、頭が回らないというのでは本末転倒です。かといってだらけて英気を養うのはけっこうですが、酒をかっくらって敵襲や火事が起きた時に酔いが回って足腰が立たず、もはや仕事にならないというのも困りものだといえますが。
 けっこうこの悪い例を引き合いに出されてだからメリハリは間違いだ、仕事は一本調子でやるべきだという話をされることがあるんですけど話を聞いていくとその中でもやはり自分にあったメリハリとかリズムというのは持っているなと思います。少なくともそれで仕事場に24時間365日いることにしているという話は聞いたことがないですね(笑)


 これらの話はかなり極端な例ですが、ともかくその両極端の間が重要ってことはあるのかなと思います。その間で、じゃあどのくらいの塩梅でメリハリを作るか。いい休みがいい仕事を作るし、いい仕事がいい休みを作るという、そういうバランス感覚や循環、習慣でありメリハリというのを体感することは非常に重要だと思います。


 ・もう一つ、いいことをするというのも時として逆効果になることもあります。
 「善行」だなんだと言ったって、それが絶対的な善行であるということはかなり少ないものですし、相対的なものであるという場合の方が圧倒的に多いものです。例えば「人助け」自体はいいことでしょうが、そうして例えばたくさん敵がいる人を助けることでたくさんの人を困らせる、それによって結果的にたくさんの人から反感を買い、かえって自分が窮地に陥る場合というのは多々あるものです。
 じゃあなにか、人助けなんかしない方がよかったってことかとなることもありますし、実際しない方がよいとはいえないまでも得である、という場合は少なくない。
 ゴミ拾いだって誰からも称賛される絶対善であるかのようですが、じゃあ集めたゴミは誰が捨てるのか、誰がゴミ袋代金とかゴミ処理代を出すのかとなればひと悶着起きかねません。ゴミ拾いでひと手間かけた上にゴミ代金まで出すのか、泣きっ面に蜂じゃねえかと揉める場合ってのはあるものです。
 「いいこと」がかえって災いを招いたり、窮地に陥らせるための導火線の役割を果たしていることは少なくありません。


 ・晋に献公という人がいました。

 この人の息子には申生・重耳・夷吾(しんせい、ちょうじ、いご)という三人がいましたが、いずれも賢明で素晴らしいという評判がありました。
 そこに現れたのが驪姫(りき)ですね。この人は献公に愛されましたが、それに伴って自分の息子を跡取りとしたいと思うようになりました。そのためにはこの三人が邪魔だと。どうにかしてこの三人を殺せないかと計略を練ることとなり、長男である申生の殺害に成功し、重耳と夷吾の国外追放に成功します。


 ・特にこの三人の中でも長男の申生は非常に賢明で優しさもあり、評判も良く孝の心も持っていました。罠にはめられても弁護することなく親を疑ったりするのは恥ずべきことだとろくに戦いもせず大人しく切られました。これこそまさに驪姫の思う壺であり、こうして晋は内乱に突入したくさんの人が殺されたり死んだりしなくてはならなくなりました。
 長男で評判も良いというだけで自動的に真っ先に矢面に立つというのに、これで何ら自分を守る手立てがないどころか罠にはめられても抵抗すらしないというのは最悪です。もしもこの人がある程度抵抗し、逆らって驪姫をなんとかしようという方向性を持っていたとすれば、一時的に戦いにはなったかもしれませんが、晋の人々も最悪の状態に陥ることはなかったでしょう。


 ・その後、逃げた次男の重耳と夷吾でしたが、晋内で驪姫を粛清しようという流れが起こり、驪姫一味は殺害されます。
 あの賢明だった二人を戻そうとなりますが、重耳はこれは罠かもしれないと断り、晋に戻りませんでした。
 そして三男の夷吾が戻って恵公となりますが、驪姫一味を粛清した者たち、つまり自分を晋に戻ってくれと言った者たちを真っ先に粛清します。
 ところがこの恵公は、食糧に困って秦から食料をもらっておきながら翌年秦が食糧不足に困っていたらこれは好機と秦に出兵します。
 秦は激怒し、晋を大いに破ります。
 その後恵公は晋に戻された後に死去しますが、なぜ死んだかは忘れました。
 そして晋に各地を放浪していた重耳が戻って、晋の文公として立つことになります。


 ・この重耳の即位までの成り行きについてはいろいろな見方や解釈ができるとは思いますが。
 わたしとしては晋のトップという地位に目がくらんだり、隣国の危機に目がくらんだりして、目がくらんでるヤツがやけに多いなという印象です。目がくらむということは、その見えるものというのは「いいもの」でありラッキーであり、利益でありプラスなんですけども、そうしてそのいいものに対して欲望を増大させて突き進んでいき、次々と滅んでいったような気がしてなりません。
 欲望の強い者たちが次々とその欲望の果てに滅んでいった、その末に欲望のそこまで強くない重耳がたまたま生き残った。
 そんな感じに見えます。


 重耳は地位や領土などに対して目がくらむことはありません。
 晋公となって欲しいと言われてもこれは罠かもしれないと一旦思いとどまる。
 相手の不利や不利な立場を衝くというのが戦争ではない。
 そういう状況でも約束を忘れることがない。というより「勝てる」という欲望によって我を見失うということがない。そこが重要な点ではないかと思います。


 楚との間に城濮の戦い(じょうぼくのたたかい)が起こりますが、かつて楚王との間に交わした「三舎退く」という口約束を守ります。
 三舎を避く(さんしゃをさく)


 ・とまあなんだかんだと言ったところで、綺麗ごとをいくら並べたところで我々は生きているわけだし、生きている以上少しでも有利になるように事態をもっていかねばならないし、そうすると相手の不利を衝くというのもやむを得ないというようになれば、欲望に従って効果的にやろうぜというようにもなっていく。
 でも本当にその道はベストな道なんだろうかと。
 それが正しいというのであれば、晋が困っている時には秦から食料を恵んで助けてもらっときながら、秦が困った際には「ラッキー」とばかりに付け込んで攻め入った夷吾の態度こそ正しいということになりはしないかと思います。でもそれによって晋は秦だけでなく諸国の信用を失ったんですよね。目先の得を拾い集めて、足し算しているはずが結果的に見れば大きく目減りしているということがあり得るわけです。


 ・欲望に突き動かされた驪姫一味や夷吾は勢力争いに巻き込まれていき、早々と姿を消した。華(花)を追い求めた人々はあっさりと滅んだ。
 その一方で、重耳は欲望に突き動かされることなく、そういうものに心動かされることなく礼や約束を守り、信用されてふと気づけば晋公として推されており、その地位を確立した。華(花)には見向きもせず、地味に生きるわけです。30年に及ぶ不遇の放浪生活でしたが、終わってみればこの不遇の時代を耐え忍び、そこで得たものの数々が重耳という人の人生を花開かせたわけです。


 このことの意味というのは、もっと掘り下げられていいように思います。





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