菜根譚43、清濁(陳平を重用した劉邦と、司馬懿を重用した曹操の話)






 「地の中でも穢れた(けがれた)ものは多くの生き物を生じ、水の中でも清いものは常に魚が棲まない。
 それゆえに君子は垢を含み、汚れを入れるだけの度量を持つべきであり、潔癖や独善を維持するべきではないのである」


 ・これ日本史ネタですけど田沼意次(たぬまおきつぐ)と松平定信(まつだいらさだのぶ)を思い出しますね。
 田沼意次が権勢を握った時代は汚職も盛んでしたが、町民文化も栄えたのだと(汚職時代ということに関しては今では異論もあるようですが)。
 しかしその後の松平定信はこんなのじゃいかんと酒も禁止、質素倹約ということで厳しく出しますがそのおかげで景気は失速、清いのはけっこうだが住みづらいということで6年程度で反発によってやめさせられてということです。

 その松平政治の象徴としての狂歌も有名ですね。

 「白河の、清き流れに耐えかねて 元の濁りの田沼恋しき」
 「世の中に蚊(か)ほどうるさきものはなしぶんぶ(文武)というて夜も寝られず」
 田沼政治によって町民文化が栄えた、町は繁栄したかもしれないが、武士としてのメンツはどうだと厳しくやったらこうなってしまったということのようです。
 松平定信は、武士としての倫理観には通じていたかもしれませんが、経済に関してはかなりマズイ一手だったようです。まああまり日本史は得意ではないのでここらで止めときますが。

 参考に。





 ・陳平(ちんぺい)という男がいました
 陳平

 彼は素晴らしく頭が切れていたということですが、ただ素行に問題があった。
 陳平の兄は、陳平はすごいヤツだから今に出世するぞと期待をし、自らは労働をして陳平は勉強に励んでいたと。
 でもその間陳平は兄嫁と密通していたという噂が立っていた。
 まあそのくらい素行に問題があったということでしょうし、仮にそういう噂が立ったとしても誰かが根も葉もない噂だと消してくれるようなわけでもなかったということですから、まあそういう風に解釈できるのではないかと。


 ・項羽の下で働いていましたが、殺されそうになったので脱出し、劉邦のところへ行きます。魏無知(ぎむち)という知り合いがいたので推挙してもらって仕えることとなりました。
 そして劉邦の下で謀略担当として働くことになりますが、それにしても評判が悪い。
 なんでも兄嫁と密通していたらしいと噂が流れてきて、それを聞いた劉邦は魏無知を「よくもそんなヤツを推挙したな」と責め立てますが、魏無知の方では「私は陳平の素行ではなく才能を買って推挙したまでです」と言います。
 品行方正であり、行いの素晴らしい聖人を欲しいなら陳平は追い出すべきだし、才能の優れた者を取り立てたいなら陳平を取るべきだと。これを言われて劉邦は陳平をそのまま重用します。

 陳平は劉邦に離間の計を進言します。
 これは採用され、大量の金を使って流言を流し、楚の陣営を疑心暗鬼に陥らせます。もともと猜疑心の強い項羽は次々と部下を疑うようになりますが、中でも范増(はんぞう)という項羽の右腕を項羽が自ら切り離したことで項羽の命運は定まったと言っていいでしょう。
 范増は失脚し、その怒りのあまりに死去します。


 しかし陳平を劉邦も重用はしてはいますが「陳平はあまりに頭が良いので、あまり信用しすぎるのは危険だ」と遺言を残しています。そのくらい警戒を解くことがなかったと。
 結局陳平は裏切ったり独立したりせずにそのまま劉邦の死後も漢に仕え続け、丞相の地位にまで上り詰めます。彼の代はともかく、その子孫たちは「あの謀略に長けた陳平の子孫か」という目線で見られ続けたということは先日記述した通りです。


 ・その大体400年後、曹操が群雄として割拠します。
 彼の言ったことというのは、素行や性格、出自は問わず、才能のある者を取るということでした。
 つまりこれは何かと言えば、劉邦と陳平の故事に基づいていると言っていいでしょう。
 兄嫁を寝取るとか。あるいは離間の策で敵陣をバラバラにして「うわ、こんなことを考えつくのか」「こいつ腹の中で一体何を思ってるかわからん」と思われ、劉邦陣営でも浮いていた、蔑まれてきた陳平でしたが。
 曹操が主張したのは、それでもオレは才能さえあれば取るし重用するということですね。この完全な実力主義を打ち出したことが曹操の特色だと言えるでしょう。


 ・曹操は司馬懿を配下に加えます。
 そして215年、陽平関の戦い(ようへいかんのたたかい)によって曹操は漢中を手に入れます。
 司馬懿はこの時曹操に言います。この勢いで蜀に攻め込んではどうだろうか。

 しかし曹操は答えます。
 これは「隴を得て蜀を望む(ろうをえてしょくをのぞむ)」なんだと。
 この言葉というのは後漢の光武帝(劉秀)の言葉を元にしているのは間違いないですね。意味としては、人の欲望には限りがないので、満足するのも大切だというような意味です。
 光武帝もかつて同じ状況だった時に、ああ人の欲望には全くキリがないものだと嘆いて、この言葉を呟いたということであり、今の曹操も光武帝のその気持ちと同じだと。ここらで満足するのも大切だという気持ちを司馬懿に伝えたものだということになってはいます。
 でも果たして本当にそうなんだろうかと。


 ・それなら袁紹を滅ぼしたときに次は江南だ、孫権の番だとはならなかったでしょう。
 「官渡を得て江南を望む」と言うように思いますし、そもそも中原を得てなんでそれ以上に河北を望もうかということで「中原を得て華北を望む」とか言ってそうなものです。でもそんなことを言っていたら曹操の勢力など中国の2/3を支配するまでには全然なっていないわけです。
 ではなぜこのタイミングで司馬懿に対してこの言葉を使ったのか、ということに関してはもっと別に考えられることがあったのではないかと思います。
 中原を遠く離れて漢中を取り、さらには蜀まで曹操自らが攻め込もうとする。それで勝てばいいかもしれませんが、大きな痛手を被る可能性もある。しかも負ければ蜀の劉備率いる軍勢が漢中から北へ向かって進軍する可能性も出てくるかもしれません。恐らくは、そこらへんに関する司馬懿の思惑があったのではないかと思います。
 曹操が勝っても勢力は疲弊する。劉備が勝ってもそこまで蜀は強くない。
 それを思えば、その発言の司馬懿の何らかの魂胆を曹操が見抜いて制したものだと思ってもいいのではないかと思います。少なくとも、欲望にはキリがないなどと言えるほど曹操は大人しくはないわけですし、その言葉を言うタイミングについてもいろいろおかしいとは思います。


 ・そこに何らかの思惑があったか、あるいはなかったかについてはわかりません。ただ曹操は司馬懿を辞めさせることなく用い続け、そして魏は司馬懿によって骨抜きにされていきます。
 劉邦は陳平を用いても警戒を解くことはありませんでしたが、同様に曹操も司馬懿を重用しましたが警戒を続けたわけです。そして陳平の子孫は陳平の死後没落する一方でしたが、司馬懿の子孫は魏を乗っ取り西晋を建国することとなります。その差は歴然としています。


 こうした経緯を見ていくと、実力主義はともかくとして、人材を用いることの本当の難しさについて感じられるように思えてきます。








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